山脇直司『経済の倫理学』
水曜日, 3 月 26th, 2008
経済の倫理学 (現代社会の倫理を考える8)
著者:山脇直司
丸善
2002年
ISBN:978-4-621-07094-9
1995円(税込)
水曜日, 3 月 26th, 2008
経済の倫理学 (現代社会の倫理を考える8)
著者:山脇直司
丸善
2002年
ISBN:978-4-621-07094-9
1995円(税込)
木曜日, 3 月 20th, 2008
『公共哲学とは何か』
著者:山脇直司
ちくま新書
出版年:2004年
ISBN:4-480-06169-X
定価(税込)756円
水曜日, 3 月 19th, 2008
季刊『公共研究』のご案内 (千葉大学公共研究センターへのリンク)
第1巻第1号 特集 持続可能な福祉社会に向けた公共研究拠点
第1巻第2号 特集 持続可能な福祉社会の構想―日本とスウェーデンを含む国際比較の視点から
第2巻第1号 特集 NGOと開発援助~環境、貧困、公共性 / ひとは市民となり、まちのにぎわいを創り出す-豊かさを共有するしくみとしての文化
第2巻第2号 特集 中国・アジアにおける〈持続可能な福祉社会〉の構想
第2巻第3号 特集 持続可能な福祉社会の構想
第2巻第4号 特集 公共哲学と公共倫理
第3巻第1号 特集 スピリチュアリティと平和
第3巻第2号 特集 風土論・環境倫理・公共性
第3巻第3号 特集 労働研究と公共性 / ニューエコノミーへの多様な道――ドイツ・日本・アメリカ
第3巻第4号 特集 「福祉と環境」の統合――持続可能な福祉社会の構想
第4巻第1号 特集 「場所の感覚」と補完性原理
第4巻第2号 特集 文明論・環境倫理・公共哲学
第4巻第3号 特集 アジア・中東における「伝統」・環境・公共性
第4巻第4号 特集 場所論・認識論・文明論 / 労働-福祉ネクサス論の射程
水曜日, 3 月 19th, 2008
『応用倫理学事典』
編集代表:加藤尚武
丸善
出版年:2007年
ISBN:978-4-621-07922-5 c3512
定価(税抜):20000円
公共哲学メンバーの執筆項目(ページ順)
吉永明弘「人間中心主義と人間非中心主義」
鬼頭秀一「環境リスク論」「自然の権利訴訟」「ダイオキシン問題」
山脇直司「公共性」「公共哲学」「正義」「人権」「公共政策における価値判断」「効率と公正」「ネオリベラルと第三の道」「市民社会」
小林正弥「憲法と憲政・憲法政治」「選挙と倫理」
水曜日, 2 月 27th, 2008
『テイラーのコミュニタリアニズム 自己・共同体・近代』
著者:中野剛充
勁草書房
出版年:2007年
ISBN:978-4-326-10167-2
定価(税込):3150円
水曜日, 2 月 27th, 2008
『ネクスト 善き社会への道』
著者:アミタイ・エツィオーニ
小林正弥監訳、公共哲学センター訳
麗澤大学出版会
出版年:2005年
ISBN:9784892054716 (4892054712)
定価(税込)2520円
火曜日, 2 月 5th, 2008
書名:『グローカル公共哲学――「活私開公」のヴィジョンのために』(公共哲学叢書9)
著者:山脇直司(東京大学)
出版社: 東京大学出版会
出版年: 2008年1月
ISBN978-4-13-010107-3
内容紹介
グローカル公共哲学とは,個人一人ひとりが自ら生きる「現場性」や「地域性」という意味でのローカリティに根ざしながら,グローバルかつローカルな公共的諸問題を論考する学問・思想である.その探究を通じて人間が「私」を活かし,政府や国家の「公」を開いていくことによって,真に豊かな社会を構想しようと問いかける.
<目次>
第I部 グローカル公共哲学のフレームワーク
第1章 人間論・公共世界論と思想的展望
第2章 倫理学の刷新—-二一世紀のグローカル倫理
第3章 学問論と方法論の転換—-「ポスト専門化」時代の学際的アプローチ
第4章 現代グローカル公共社会論—-第II部への架橋
第II部 グローカル公共哲学の活動圏
第5章 政治・法・公共政策—-民主主義・正義・人権・平和の公共哲学
第6章 経済・福祉・環境—-それらを関連付ける公共哲学
第7章 メディア・教育・宗教—-公共哲学の焦眉のテーマ
火曜日, 2 月 5th, 2008
2007年の日本平和学会(春季)「平和と公共性」分科会で行われた研究報告が、日
本平和学会編『平和研究第32号 スピリチュアリティと平和』(早稲田大学出版部
2007年)に掲載されています。この報告は、平和研究の新しい議論を切り開くものと
して注目されております。平和や宗教に興味・関心のある方は、是非とも購入するこ
とをお勧めします。
現在、千葉大学公共哲学センターにご注文いただけると2割引でご購入することがで
きます。
<目次>
金鳳珍、上村雄彦 巻頭言 スピリチュアリティと平和への問い――公共哲学、倫理、心の平和を求めて
西川潤 1 「心の豊かさ」をどう計るか?
稲垣久和 2 スピリチュアリティと平和――南原繁『国家と宗教』から公共哲学へ
黒住真 3 平和への問い――初期の倫理思想から
小林正弥 4 地球公共的霊性の哲学的展望――『文明の衝突』を越えるために
島薗進 5 新霊性文化と平和を志向する社会・政治活動
佐藤壮広 6 「巫女の平和学」試論――死者の感受と沖縄からの平和祈念
<金額>
定価の8割:2688円(1冊)+送料(290円)=2978円
( 定価 :3360円)
<注文受付期間>
平成20年2月―平成20年2月末
<代金の支払い>
郵便振替用紙と請求書を本と同封して早稲田大学出版部より送付。
(※場合によって郵便振替に手数料がかかります。)
<購入者に記入していただく情報>
・注文冊数
・名前
・送り先
・請求書の宛先
・電話
<購入の方法>
上記の必要事項を記して、メール(またはFAXにて)千葉大学公共哲学センターまでご連絡ください。
(※本の発には、1週間程度の時間がかかります。お急ぎの方はamazon.comをご利用ください。但し、amazonの在庫は薄いです。)
千葉大学大学院人文社会科学研究科
公共哲学センター 事務局
〒263-8522 千葉市稲毛区弥生町1-33
Fax: 043-290-3028
E-mail: cpp2@shd.chiba-u.ac.jp
以上です。
何か不明な点がございましたら、千葉大学公共哲学センターにメール
(cpp2@…)にてご連絡をお願いします。(大変申し訳ありません
が、職員が常駐しているわけではありません。)
—————————————
千葉大学 大学院人文社会科学研究科
公共哲学センター
Fax: 043-290-3028
E-mail: cpp2@shd.chiba-u.ac.jp
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土曜日, 1 月 26th, 2008
稲垣久和(東京基督教大学)「温暖化問題と公共信託論」
(1月25日 北海道新聞 夕刊 文化欄に掲載)
今年、七月に、洞爺湖で地球温暖化をテーマにG8サミットが開かれる。昨年末に福田首相は中国を訪問した。中国はアメリカに次いだ温室効果ガスの多量排出国である。
温室ガスの削減は、現代人のライフスタイルを変えないでは無理である。人間に一番難しいのは、ライフスタイルを変えることではない。ライフスタイルを変えるための「思想」を変えることの方である。思想を変えないでライフスタイルを変えた気になっても、また元に戻るだけであろう。思想が変わったときに、ライフスタイルもまた変わる。だが、現代人がその思想を変えることはきわめて困難なのだ。
温暖化問題に対処するということは、近現代文明を牽引してきた思想を変えることだから、まず出来ない相談だと考えてよい。近現代文明は人間の「欲望を解放する」ことが善であった。しかし今や「欲望を絶つ」ことが善だと言われているのである。欲望を絶つことができるのは「聖人」だけだろう。
しかし、生身の人間が、「聖人」になるのは不可能ではないのか。では、温暖化問題に対処するにはどうすればよいのだ。国家権力の力によって、強制的に「聖人」にさせられるということであろうか。これはブラックユーモアに近い。
一人ひとりが「聖人」になるとは、欲望をコントロールできる大人になれということだろう。このことは、実は、それほど突飛な考え方ではない。というのは、憲法前文にある「そもそも国政は、国民の厳粛な信託による」の部分の英訳は「Government is a sacred trust of the people」となっているからだ。ここで「sacred trust」とは「聖なる信託」という意味だからである。六十歳を過ぎた日本国憲法は、われわれ一人ひとりが欲望をコントロールできる「大人」になることを期待しているのである。東アジアの戦後史は、「五十にして天命を知る」(論語)の境地に入ったのだろう。互いの愛国心を抑え、国境問題でいがみ合うよりも、歴史認識を共有しつつ和解(和諧)を目ざせ、と。
「信託」も重要である。筆者は公共信託論という発想で環境倫理を見直したい、と考えている。現憲法にある「信託」の考え方を、国境を越えた「新たな公共」へと全人類的に拡大するとともに、それぞれの地域やNGO、NPOなど環境保全や生活のニーズに応じて、中間集団の持つ「領域主権論」を基本に据える。公共信託論によるサービスの担い手は「市民」であり、「行政」であり、「企業」である。立憲主義を尊重しつつ、しかし国民主権という抽象性に安住することなく、生活領域に委託された主権性を活かせ、という主張である。領域主権論は、何よりも、生活者がさまざまな領域で生じるニーズを大切にし、一人ひとりの内面の自我を磨き上げて、良心に基づいた実践を促していく。
市民一人ひとりの自立した磨かれた自我は、国境を越えて「他者」を配慮でき、徳性を備え、自分と異なる考えを持つ者に寛容な人格でありたい(これが「聖人」になるという意味である)。あくまでも市民の自発性と自治を重んじ、「よき社会」を作るために各領域がサポートし合い、国家はこれを補完する。
もともと日本の伝統は、古代から、このような多様な「他者」を受け入れ、共存させてきた多元的で、重層的な社会であったはずだ。古代の仏教、儒教、道教の受容から始まり、キリシタン、啓蒙主義、近代の新宗教、戦後のさまざまなイデオロギーの受容等々。もし、日本のアイデンテイテイーを確立したいのであれば、このような多元的な思想が共存できる、いや古くから共存させてきた、日本人の寛容な互助の精神に見出すべきではないか。
ちょうど半世紀前の一九五八年、敗戦後の指導的知識人・南原繁は戦時中に書いた「国家と宗教」の版を改めた。その「改版の序」の冒頭に次のように記した。「或る時代または或る国民が、いかなる神を神とし、何を神性と考えるかということは、その時代の文化や国民の運命を決定するものである」。続けて「真の神が発見されないかぎり、人間や民族ないし国家の神聖化は跡を絶たないであろう」と。国家ではなく国民の方が「聖人」になるべし、ということではないか。筆者が昨年末に上梓した「国家・個人・宗教-近現代日本の精神」(講談社現代新書)は、「国家と宗教」への今日的レスポンスを意図したつもりである。
火曜日, 12 月 25th, 2007
稲垣久和「南原繁へのレスポンス」〔読書人の雑誌『本』1月号(講談社)より引用〕
人間は理性の動物か、情念の動物か。近代科学以降、理性は特権的地位を与えられた。もちろん情念も芸術や文学で重視されてはいた。では、社会生活や政治の世界ではどうか。答は、理性も情念もその両方があったということなのだが、建前的には、近代政治の仕組みは良くも悪くも「理性」によって社会を作り上げる。
啓蒙主義からはじまって、自由主義・資本主義はそうだった。またそれと対抗的な社会主義・共産主義もそうだった。「科学的合理性」は自由主義、共産主義の両者に共通な「普遍的ものさし」であった。冷戦期にはこの両方が東西イデオロギーとして国際政治を強く縛って対立を深めていたわけである。
とはいえ実際には、東西の両陣営とも、これらイデオロギーを支えているナショナリズム的愛国心は「情念」に深く関わるものであった。人々が理性だけで動いていないことは明白である。
ところで、東西イデオロギー対立が崩壊したあとの世界は、どうなったのであろうか。そこには、啓蒙主義近代が想定していた「理性と情念」の二項対立では測れない現象が多く出てきている。つまり「宗教」や「民族」の問題である。特に「宗教」は、近代啓蒙主義以降は封印されてしまったのであったのだが、これが新たな装いで浮上してきたのである。
西側でも東側でも、宗教はなくなったわけではない。“政教分離”によって個々人の内面に「私事化」されていた。それが、イスラーム世界の原理主義の登場以来、二十一世紀に宗教は再び外面に登場してきた。ポストコロニアルな民族の問題も単なる「情念」ではなく、宗教的ないしはスピリチュアルなアイデンティティーと絡んでいる。
日本でも、小泉政権下の「靖国神社」参拝、安倍政権下の改正教育基本法の「愛国心」と「公共の精神」も、実はこのグローバルな宗教的、スピリチュアルなアイデンティティーと関わっている。特に靖国問題はきわめて日本に特徴的な宗教・政治的現象だ。単なるナショナリズムということであれば、グローバルに共通の問題なのだが、靖国には明治国家成立時の独特のスピリチュアリティーが横たわっているからだ。
宗教は、結局、いつの時代も、なくならないのだと思う。コント的な実証主義や進歩史観では、宗教は弱まって科学の時代に移行するはずだった。しかし、もはや、啓蒙のプロジェクトが挫折しているのは誰の目にも明らかだ。そうだとすれば、どのような形で宗教を人々の幸福に生かしていくべきかを、学問の課題として方法論的にも明確化する必要がある。
ただ、いわゆる宗教学や宗教社会学といった価値中立な手法では、この問題は十分に扱えない。哲学、政治学、法学、社会学などを視野に入れつつ学問横断的な手法が必要になる。ここで、最近の日本の学会でトランス・ディシプリナリーな関心で展開されている公共哲学は強力なツールとなる。
筆者の立場から、公共哲学の内容を簡単にをまとめておこう。
個人の自由を尊重すると同時に他者の自由を尊重する。
宗教やスピリチュアリティーを公共の場で正しく位置づける。
愛国心の対象は国家(=公)ではない。愛は国民にそして市民、隣人(=公共)に向かうべき。
政治、経済、社会、福祉、教育、環境、宗教、科学技術を包括的・対話的に扱う哲学。
なかでも公(=国家)と公共(=市民社会)の区別は重要で、特に私事化された宗教心やスピリチュアリティーを解き放つ際に、国家や政府と結び付くことによる危険性(戦前の国家神道の再来としての靖国参拝や愛国心の過度の喚起)に注意する。
その上で、市民が「下から上へ」とかもし出す隣人愛、慈悲の心、仁の心が市民社会に連帯を与えるエートスを提供する。
宗教は両刃の剣だ。宗教は共同体を結び付け一体感を与える機能を秘めているだけに、一人ひとりの人間の「良心」を殺す方向性にも働きうるということである。他者を同化して共同体に縛っていく道具になってしまう。近代がいかに批判されるべき面を持つとは言え、人間の内面の良心を尊重し「人権」として法的に保障したことは大きな成果である。
したがって、共同体の一体感を与える面にウエートを置く宗教と、一人ひとりの内面の自由と良心とにウエートを置く宗教では、同じ「宗教」でも性格がまったく異なる。単に宗教心の復興が重要であるといっているのではない。人間を内側から変革して、他者への「寛容」のモラルを示す宗教性こそが、市民社会形成に資する、と主張したいのである。
そう考えると、改正教育基本法の「公共の精神」の導入(前文、第二条)は議論の出発点になる。公共哲学では「公共」に従来のような国家や行政の意味ではなく、「市民」の間に開かれたフォーラムとしての意味を与えているからだ。
今日、ほとんど忘れられているが、戦後の旧教育基本法制定に関わった南原繁、彼の政治哲学は、民族や宗教の問題を深く考えていた。再検討されてしかるべきである。ただ、その際に彼の「宗教」の捉え方が一つの焦点になる。
南原の主著『国家と宗教』(一九四二年)の、戦後の「改版の序」(一九五八年)に次のようにある。「真の神が発見されないかぎり、人間や民族ないし国家の神聖化は跡を絶たないであろう」。また、東京帝国大学総長として敗戦後初の「紀元節」で講演した「新日本文化の創造」(一九四六年)では、今後の日本には宗教改革と同時にルネッサンスが必要であると述べ、「民族宗教的な日本神学からの解放」のためには単なる人文主義の理想ではだめだとする。
このとき、すでに戦後の「リベラリズム」の行く末を見通した慧眼を示していたのではないか。それだけではない。「宗教に代うるには同じく宗教をもってすべく、ここに新たに普遍人類的なる世界宗教との対決を、いまこそ国民としてまじめに遂行すべき秋(とき)である」とも言い切る。
「無宗教」の日本人よ、目を世界に向けよ、と。続けて「これは一個の主観的信仰や憶測から立言するものではなく、精神史研究の学問的立場から客観的に主張し得ることである」と。宗教、政治、社会を総合的に扱える学問的方法論の開発を促していたのである。今回、上梓した『国家・個人・宗教——近現代日本の精神』は、この『国家と宗教』への筆者なりのレスポンスである。
詳述してはいないが、筆者の本書にはもう一つの主張がある。それは「国家主権」の再考である。
かつてヨーロッパ中世での「教会」という共同体組織が、宗教改革後の動乱を経て、近代には「国家」という組織に置き換わった。国家を国家たらしめているのは主権概念である。国家主権論はボダンの提唱から、ホッブズに受け継がれルソーによって国民主権論となった。しかし、ルソーの近代国民国家の社会契約論は、一つの難点をはらんでいた。個人個人が契約を結ぶという「理性」に訴える面だけではなく、市民宗教(公民宗教)と呼ばれる名の強固な愛国心、つまり「情念」を通り越した一種の「宗教」を要求していたのである。
ルソーのアポリアを逃れるには、国家よりも市民社会を強くする必要がある。「国民主権」の抽象性を脱構築して、各種市民グループに分散した「市民主権」さらには「領域主権」を構想する必要があるのだ。近代の国民国家の限界が指摘されている今日、地方分権の流れと同時に、市民が生命、生活、生存のニーズのために環境、福祉、平和、共生を目指して、国境を越えた自発的な大小さまざまなNGO/NPOなどを結成して、友愛に基づいて連帯していくことの重要性がここにある。
