カテゴリ

最近の投稿

Author Archive

稲垣久和「温暖化問題と公共信託論」

土曜日, 1 月 26th, 2008

稲垣久和(東京基督教大学)「温暖化問題と公共信託論」
(1月25日 北海道新聞 夕刊 文化欄に掲載)
今年、七月に、洞爺湖で地球温暖化をテーマにG8サミットが開かれる。昨年末に福田首相は中国を訪問した。中国はアメリカに次いだ温室効果ガスの多量排出国である。
温室ガスの削減は、現代人のライフスタイルを変えないでは無理である。人間に一番難しいのは、ライフスタイルを変えることではない。ライフスタイルを変えるための「思想」を変えることの方である。思想を変えないでライフスタイルを変えた気になっても、また元に戻るだけであろう。思想が変わったときに、ライフスタイルもまた変わる。だが、現代人がその思想を変えることはきわめて困難なのだ。
温暖化問題に対処するということは、近現代文明を牽引してきた思想を変えることだから、まず出来ない相談だと考えてよい。近現代文明は人間の「欲望を解放する」ことが善であった。しかし今や「欲望を絶つ」ことが善だと言われているのである。欲望を絶つことができるのは「聖人」だけだろう。
しかし、生身の人間が、「聖人」になるのは不可能ではないのか。では、温暖化問題に対処するにはどうすればよいのだ。国家権力の力によって、強制的に「聖人」にさせられるということであろうか。これはブラックユーモアに近い。
一人ひとりが「聖人」になるとは、欲望をコントロールできる大人になれということだろう。このことは、実は、それほど突飛な考え方ではない。というのは、憲法前文にある「そもそも国政は、国民の厳粛な信託による」の部分の英訳は「Government is a sacred trust of the people」となっているからだ。ここで「sacred trust」とは「聖なる信託」という意味だからである。六十歳を過ぎた日本国憲法は、われわれ一人ひとりが欲望をコントロールできる「大人」になることを期待しているのである。東アジアの戦後史は、「五十にして天命を知る」(論語)の境地に入ったのだろう。互いの愛国心を抑え、国境問題でいがみ合うよりも、歴史認識を共有しつつ和解(和諧)を目ざせ、と。
「信託」も重要である。筆者は公共信託論という発想で環境倫理を見直したい、と考えている。現憲法にある「信託」の考え方を、国境を越えた「新たな公共」へと全人類的に拡大するとともに、それぞれの地域やNGO、NPOなど環境保全や生活のニーズに応じて、中間集団の持つ「領域主権論」を基本に据える。公共信託論によるサービスの担い手は「市民」であり、「行政」であり、「企業」である。立憲主義を尊重しつつ、しかし国民主権という抽象性に安住することなく、生活領域に委託された主権性を活かせ、という主張である。領域主権論は、何よりも、生活者がさまざまな領域で生じるニーズを大切にし、一人ひとりの内面の自我を磨き上げて、良心に基づいた実践を促していく。
市民一人ひとりの自立した磨かれた自我は、国境を越えて「他者」を配慮でき、徳性を備え、自分と異なる考えを持つ者に寛容な人格でありたい(これが「聖人」になるという意味である)。あくまでも市民の自発性と自治を重んじ、「よき社会」を作るために各領域がサポートし合い、国家はこれを補完する。
もともと日本の伝統は、古代から、このような多様な「他者」を受け入れ、共存させてきた多元的で、重層的な社会であったはずだ。古代の仏教、儒教、道教の受容から始まり、キリシタン、啓蒙主義、近代の新宗教、戦後のさまざまなイデオロギーの受容等々。もし、日本のアイデンテイテイーを確立したいのであれば、このような多元的な思想が共存できる、いや古くから共存させてきた、日本人の寛容な互助の精神に見出すべきではないか。
ちょうど半世紀前の一九五八年、敗戦後の指導的知識人・南原繁は戦時中に書いた「国家と宗教」の版を改めた。その「改版の序」の冒頭に次のように記した。「或る時代または或る国民が、いかなる神を神とし、何を神性と考えるかということは、その時代の文化や国民の運命を決定するものである」。続けて「真の神が発見されないかぎり、人間や民族ないし国家の神聖化は跡を絶たないであろう」と。国家ではなく国民の方が「聖人」になるべし、ということではないか。筆者が昨年末に上梓した「国家・個人・宗教-近現代日本の精神」(講談社現代新書)は、「国家と宗教」への今日的レスポンスを意図したつもりである。

Read More..>>

稲垣久和「南原繁へのレスポンス」(読書人の雑誌『本 1月号』、講談社)

火曜日, 12 月 25th, 2007

稲垣久和「南原繁へのレスポンス」〔読書人の雑誌『本』1月号(講談社)より引用〕

人間は理性の動物か、情念の動物か。近代科学以降、理性は特権的地位を与えられた。もちろん情念も芸術や文学で重視されてはいた。では、社会生活や政治の世界ではどうか。答は、理性も情念もその両方があったということなのだが、建前的には、近代政治の仕組みは良くも悪くも「理性」によって社会を作り上げる。
啓蒙主義からはじまって、自由主義・資本主義はそうだった。またそれと対抗的な社会主義・共産主義もそうだった。「科学的合理性」は自由主義、共産主義の両者に共通な「普遍的ものさし」であった。冷戦期にはこの両方が東西イデオロギーとして国際政治を強く縛って対立を深めていたわけである。
とはいえ実際には、東西の両陣営とも、これらイデオロギーを支えているナショナリズム的愛国心は「情念」に深く関わるものであった。人々が理性だけで動いていないことは明白である。
ところで、東西イデオロギー対立が崩壊したあとの世界は、どうなったのであろうか。そこには、啓蒙主義近代が想定していた「理性と情念」の二項対立では測れない現象が多く出てきている。つまり「宗教」や「民族」の問題である。特に「宗教」は、近代啓蒙主義以降は封印されてしまったのであったのだが、これが新たな装いで浮上してきたのである。
西側でも東側でも、宗教はなくなったわけではない。“政教分離”によって個々人の内面に「私事化」されていた。それが、イスラーム世界の原理主義の登場以来、二十一世紀に宗教は再び外面に登場してきた。ポストコロニアルな民族の問題も単なる「情念」ではなく、宗教的ないしはスピリチュアルなアイデンティティーと絡んでいる。
日本でも、小泉政権下の「靖国神社」参拝、安倍政権下の改正教育基本法の「愛国心」と「公共の精神」も、実はこのグローバルな宗教的、スピリチュアルなアイデンティティーと関わっている。特に靖国問題はきわめて日本に特徴的な宗教・政治的現象だ。単なるナショナリズムということであれば、グローバルに共通の問題なのだが、靖国には明治国家成立時の独特のスピリチュアリティーが横たわっているからだ。
宗教は、結局、いつの時代も、なくならないのだと思う。コント的な実証主義や進歩史観では、宗教は弱まって科学の時代に移行するはずだった。しかし、もはや、啓蒙のプロジェクトが挫折しているのは誰の目にも明らかだ。そうだとすれば、どのような形で宗教を人々の幸福に生かしていくべきかを、学問の課題として方法論的にも明確化する必要がある。
ただ、いわゆる宗教学や宗教社会学といった価値中立な手法では、この問題は十分に扱えない。哲学、政治学、法学、社会学などを視野に入れつつ学問横断的な手法が必要になる。ここで、最近の日本の学会でトランス・ディシプリナリーな関心で展開されている公共哲学は強力なツールとなる。
筆者の立場から、公共哲学の内容を簡単にをまとめておこう。

個人の自由を尊重すると同時に他者の自由を尊重する。
宗教やスピリチュアリティーを公共の場で正しく位置づける。
愛国心の対象は国家(=公)ではない。愛は国民にそして市民、隣人(=公共)に向かうべき。
政治、経済、社会、福祉、教育、環境、宗教、科学技術を包括的・対話的に扱う哲学。
なかでも公(=国家)と公共(=市民社会)の区別は重要で、特に私事化された宗教心やスピリチュアリティーを解き放つ際に、国家や政府と結び付くことによる危険性(戦前の国家神道の再来としての靖国参拝や愛国心の過度の喚起)に注意する。
その上で、市民が「下から上へ」とかもし出す隣人愛、慈悲の心、仁の心が市民社会に連帯を与えるエートスを提供する。

宗教は両刃の剣だ。宗教は共同体を結び付け一体感を与える機能を秘めているだけに、一人ひとりの人間の「良心」を殺す方向性にも働きうるということである。他者を同化して共同体に縛っていく道具になってしまう。近代がいかに批判されるべき面を持つとは言え、人間の内面の良心を尊重し「人権」として法的に保障したことは大きな成果である。
したがって、共同体の一体感を与える面にウエートを置く宗教と、一人ひとりの内面の自由と良心とにウエートを置く宗教では、同じ「宗教」でも性格がまったく異なる。単に宗教心の復興が重要であるといっているのではない。人間を内側から変革して、他者への「寛容」のモラルを示す宗教性こそが、市民社会形成に資する、と主張したいのである。
そう考えると、改正教育基本法の「公共の精神」の導入(前文、第二条)は議論の出発点になる。公共哲学では「公共」に従来のような国家や行政の意味ではなく、「市民」の間に開かれたフォーラムとしての意味を与えているからだ。
今日、ほとんど忘れられているが、戦後の旧教育基本法制定に関わった南原繁、彼の政治哲学は、民族や宗教の問題を深く考えていた。再検討されてしかるべきである。ただ、その際に彼の「宗教」の捉え方が一つの焦点になる。
南原の主著『国家と宗教』(一九四二年)の、戦後の「改版の序」(一九五八年)に次のようにある。「真の神が発見されないかぎり、人間や民族ないし国家の神聖化は跡を絶たないであろう」。また、東京帝国大学総長として敗戦後初の「紀元節」で講演した「新日本文化の創造」(一九四六年)では、今後の日本には宗教改革と同時にルネッサンスが必要であると述べ、「民族宗教的な日本神学からの解放」のためには単なる人文主義の理想ではだめだとする。
このとき、すでに戦後の「リベラリズム」の行く末を見通した慧眼を示していたのではないか。それだけではない。「宗教に代うるには同じく宗教をもってすべく、ここに新たに普遍人類的なる世界宗教との対決を、いまこそ国民としてまじめに遂行すべき秋(とき)である」とも言い切る。
「無宗教」の日本人よ、目を世界に向けよ、と。続けて「これは一個の主観的信仰や憶測から立言するものではなく、精神史研究の学問的立場から客観的に主張し得ることである」と。宗教、政治、社会を総合的に扱える学問的方法論の開発を促していたのである。今回、上梓した『国家・個人・宗教——近現代日本の精神』は、この『国家と宗教』への筆者なりのレスポンスである。

詳述してはいないが、筆者の本書にはもう一つの主張がある。それは「国家主権」の再考である。
 かつてヨーロッパ中世での「教会」という共同体組織が、宗教改革後の動乱を経て、近代には「国家」という組織に置き換わった。国家を国家たらしめているのは主権概念である。国家主権論はボダンの提唱から、ホッブズに受け継がれルソーによって国民主権論となった。しかし、ルソーの近代国民国家の社会契約論は、一つの難点をはらんでいた。個人個人が契約を結ぶという「理性」に訴える面だけではなく、市民宗教(公民宗教)と呼ばれる名の強固な愛国心、つまり「情念」を通り越した一種の「宗教」を要求していたのである。
ルソーのアポリアを逃れるには、国家よりも市民社会を強くする必要がある。「国民主権」の抽象性を脱構築して、各種市民グループに分散した「市民主権」さらには「領域主権」を構想する必要があるのだ。近代の国民国家の限界が指摘されている今日、地方分権の流れと同時に、市民が生命、生活、生存のニーズのために環境、福祉、平和、共生を目指して、国境を越えた自発的な大小さまざまなNGO/NPOなどを結成して、友愛に基づいて連帯していくことの重要性がここにある。

Read More..>>

稲垣久和『国家・宗教・個人――近現代日本の精神』

火曜日, 12 月 25th, 2007

『国家・宗教・個人――近現代日本の精神』
著者:稲垣久和(東京基督教大学)
講談社現代新書 2007年
ISBN:978-4-06-287919-4 定価(税込):756円
内容紹介:愛国心問題とスピリチュアル・ブームの共通点とは? 国家神道という特異な宗教で国民をまとめた戦前、宗教を語らない戦後の知識人。国家とは?個人とは?現代のスピリチュアルブーム、愛国心騒動につながる問題に鋭く切り込む。詳細は出版社へ

Read More..>>

平和への大結集・千葉 連続講座第2回「日本国憲法の今」(2008年1月20日 (SUN))

金曜日, 12 月 21st, 2007

テーマ:「衆議院選挙における「平和への結集」~民・民連合と公共哲学」
講師:小林正弥(千葉大学)
日時:2008年1月20日 15:00~17:00(開場14:30-)
場所:千葉市民会館 会議室3・4
http://www.f-cp.jp/shimin/map.html

Read More..>>

「コミュニタリアニズムの可能性~哲学から実践まで~」(2008年1月22日,Tues)

金曜日, 12 月 21st, 2007

 日時:2008年1月22日(火) 15:00-19:30
場所:千葉大学法経学部 第一会議室
報告者:菊池理夫(三重中京大)辻康夫(北海道大学)、小林正弥(千葉大)、中野剛充(千葉大)、一ノ瀬佳也(千葉大)
【連絡先】千葉大学大学院人文社会科学研究科 公共哲学センター
Fax: 043-290-3028 e-mail:  cpp1@shd.chiba-u.ac.jp

Read More..>>

その他の情報

木曜日, 12 月 6th, 2007


Read More..>>

コモンズ・コミュニティ・コミュニタリアニズム(2007/10/15,Mon)

火曜日, 12 月 4th, 2007

21COEセミナー
「コモンズ・コミュニティ・コミュニタリアニズム」

報告:広井良典(本COE拠点リーダー)、倉阪秀史(本COE公共政策部門サブリーダー)
コメンテータ:大江守之氏(慶応義塾大学総合政策学部教授)、工藤秀明氏(千葉大学法経学部教授)
総合コメント:小林正弥(本COE公共哲学部門サブリーダー)
時間:13:00~16:30

場所:人文社会科学研究科総合研究棟2Fマルチメディア会議室

Read More..>>

公共哲学叢書

日曜日, 10 月 7th, 2007

 公共哲学叢書9
『グローカル公共哲学 「活私開公」のヴィジョンのために』
(東京大学出版会のHPへリンク) 著者:山脇直司
出版年:2008年

公共哲学叢書8
『公共哲学と古典と将来』
(東京大学出版会のHPへリンク)編者:宮本久雄、山脇直司
出版年:2005年

公共哲学叢書7
『政治哲学へ 現代フランスとの対話』
(東京大学出版会のHPへリンク)著者:宇野重規
出版年:2004年

公共哲学叢書6
『宗教と公共哲学 生活世界のスピリチュアリティ 』
(東京大学出版会のHPへリンク)著者:稲垣久和
出版年:2004年

公共哲学叢書5
『福祉の公共哲学』
(東京大学出版会のHPへリンク)編者:塩野谷祐一、鈴村興太郎、後藤玲子
出版年:2004年

公共哲学叢書4
『東アジアにおける公共知の創出 過去、現在、未来 』
(東京大学出版会のHPへリンク)編者:佐々木毅、山脇直司、村田雄二郎
出版年:2003年

公共哲学叢書3
『地球的平和の公共哲学 「反テロ」世界戦争に抗して 』
(東京大学出版会のHPへリンク)編者:公共哲学ネットワーク
出版年:2003年

公共哲学叢書2
『丸山眞男論 主体的作為、ファシズム、市民社会 』
(東京大学出版会のHPへリンク)編者:小林正弥
出版年:2003年

公共哲学叢書1
『経済と倫理 福祉国家の哲学 』
(東京大学出版会のHPへリンク)著者:塩野谷祐一
出版年:2002年

Read More..>>

公共哲学シリーズ(全20巻)

土曜日, 10 月 6th, 2007

第1期シリーズ(全10巻)
第2期シリーズ(全5巻)
第3期シリーズ(全5巻)
公共哲学 (全10巻)第1期シリーズのご案内
(東京大学出版会のHPへリンク)
第1巻 公と私の思想史(佐々木毅、福田歓一ほか)
第2巻 公と私の社会科学((福田歓一、今田高俊ほか)
第3巻 日本における公と私(黒住真、水林彪ほか)
第4巻 欧米における公と私(小林正弥、田中秀夫ほか)
第5巻 国家と人間と公共性(佐々木毅、坂本多加雄ほか)
第6巻 経済からみた公私問題(鈴村興太郎、猪木武徳ほか)
第7巻 中間集団が開く公共性(今田高俊、長谷川公一ほか)
第8巻 科学技術と公共性(佐藤文隆、柴田治呂ほか)
第9巻 地球環境と公共性(宇井純、石弘之ほか)
第10巻 21世紀公共哲学の地平(山脇直司、黒住真ほか)
公共哲学 (全5巻)第2期シリーズのご案内
(東京大学出版会のHPへリンク)
第11巻 自治から考える公共性(編者:西尾勝、小林正弥)
第12巻 法律から考える公共性(編者:長谷部恭男、金泰昌)
第13巻 都市から考える公共性(編者:今田高俊、金泰昌)
第14巻 リーダーシップから考える公共性(編者:小林良彰、金泰昌)
第15巻 文化と芸能から考える公共性(編者:宮本久雄、金泰昌)
公共哲学 (全5巻)第3期シリーズのご案内
(東京大学出版会のHPへリンク)
第16巻 宗教から考える公共性(編者:稲垣久和、金泰昌)
第17巻 知識人から考える公共性(平石直昭、金泰昌)
第18巻 組織・経営から考える公共性(山脇直司、金泰昌)
第19巻 健康・医療から考える公共性(市野川容孝、金泰昌)
第20巻 世代間関係から考える公共性(鈴村興太郎、宇佐美誠、金泰昌)

Read More..>>

公共哲学紹介文献

土曜日, 10 月 6th, 2007

1.山脇直司、大沢真理 大森 彌 松原隆一郎 編『現代日本のパブリック・フィロソフィ』(新世社、1998年)は、今日の日本において、「公共哲学」を初めて本格的に取り上げて論じた画期的な著作です。その代表的な編者・山脇直司教授は、この著作の刊行を契機として、以下の公共哲学共同研究会に参加され、(科研費)公共哲学研究会の代表を努められています。「公共哲学宣言」と合わせてお読みいただければ、私達の運動の起点となる思想を知る事ができます。この著作の目次については、書名をクリックしてください。また、山脇教授は、『新社会哲学宣言』(創文社、1999年)でも公共哲学に言及され、「公共哲学宣言」にいう「学問革命」の基本的構図を学問論として提示しておられます。この本については、『創文』の文章をご覧ください。

山脇直司(東京大学)

公共世界-自己-他者」理解の革新–『新社会哲学宣言』に寄せて–,『創文』(2000年4月号) (⇒創文社)
公共哲学による学問の構造改革を!,『環』(2002年4月)、藤原書店

2.山脇直司『経済の倫理学』(丸善、2002年)が刊行されました。この本に対する書評を掲載します。

竹中英俊

山脇直司著『経済の倫理学』をめぐって

3.将来世代国際財団・将来世代総合研究所が主催した公共哲学関連の研究会は、『UP』(東京大学出版会)誌で紹介されています。

山脇直司(東京大学)

ハーバード・フォーラム『地球時代の公共哲学』を終えて,『UP』2000年12月号(338号)

今田高俊(東京工業大学)

グローカル公共哲学の射程-新自由主義に抗して,『UP』2002年2月号(352号)

小林正弥(千葉大学)

社会諸科学の哲学・政治哲学・公共哲学――『政治的恩顧主義(クライエンテリズム)論』の方法論的背景とその展開(上・下),『UP』2001年9・10月号(347・348号)

小林正弥(千葉大学)

『政治的恩顧主義論ーー日本政治研究序説』,東京大学出版会、2000年

4.公共哲学共同研究会(1998-2000年度)
この研究会は、将来世代国際財団・将来世代総合研究所〔金泰昌所長〕によって開催されたもので、本科研費プロジェクト(2001-2004年度)の起点となるものでした。アジアにおける公共哲学の樹立を目指し、日本の代表的な研究者が京都に集って、1~2ヶ月に一度づつ、「公共性」や「公/私」の観念を中心に活発な議論を展開してきました。その成果は、まず将来世代国際財団より刊行され、再編集されて、東京大学出版会から10冊のシリーズ『公共哲学』として出版がはじめられています。
海外でも、韓国(ソウル大学)・中国(北京社会科学研究院)・イギリス(ケンブリッジ大学、キングス・コレッジ)・アメリカ(ハーヴァード大学)等で国際会議を開催し、代表的研究者達と討論を重ねてきました。そして本センター長(小林)は、公共哲学共同研究会に始めから継続的に参加し、特に国際会議については、公共哲学共同研究会ニュース(将来世代国際財団発行、将来世代総合研究所編集)などに詳細な紹介・感想を寄稿しています。ご参考までに、将来世代総合研究所の許可を得て、その文章を掲載致します。

小林正弥(千葉大学)

 「日韓公共哲学共同研究会所感」(金栄国、金弘宇、具範謨 、鄭允在/金泰昌、溝口雄三、山脇直司、渡辺浩等、199年2月20ー22日) (『日韓で初めて語る公私問題ーー第8回公共哲学共同研究会(ソウル会議)--』将来世代国際財団発行、将来世代総合研究所編集、1999年5月9日、219-220頁)
「ケンブリッジ・フォーラム所感ーー概括と成功報告」
(ジョン・ダン、レイモンド・ゴイス、マクマレン、マクマダーモット/金泰昌、山脇直司、塩野谷祐一、足立幸男等、1999年9月12-15日) (『公共哲学共同研究会ニュース』将来世代国際財団発行、将来世代総合研究所編集、1999年12月5日、第7号、1-7頁、20001年2月改訂)
 「ハーヴァード地球的公共哲学セミナー所感ーー共同体主義者達との交感」
(チャールズ・テイラー、マイケル・サンデル、ド・バリ/金泰昌、山脇直司、大沼保昭等、2000年3月7-9日) (『公共哲学共同研究ニュース』将来世代国際財団発行、将来世代総合研究所編集、2000年4月1日、第9号、2-12頁、20001年2月改訂)
「総合論的公共性論–新公共体主義の展望」 (『日韓で初めて語る公私問題――第8回公共哲学共同研究会(ソウル会議)――』将来世代国際財団発行、将来世代総合研究所編集、1999年5月9日、123-131頁、2001年2月改訂)

Read More..>>

検索


リンク

関連リンク

一般リンク

掲示板

total of 96792 visits