月曜日, 9月 29th, 2008
2006-12-14「教育基本法の理念――改定に抗する大学人有志の連帯アピール」 東京大学教育学部 教育基本法の理念と公共性問題――改定に抗して大結集を 小林正弥 1 公共哲学と教育基本法 (1)現在の公共哲学公共哲学宣言(注) 山脇直司・小林 声明の考えもあった。MLや朝日新聞での批判など 稲垣久和、千葉眞 アカデミックな思想的批判が必要。憲法問題と同じように、庶民的保守層にも反対を拡大するための議論を。 (2)戦後公共哲学 南原―丸山公共哲学 南原繁シンポジウム、立花隆 8・15憲法と違い、日本側のイニチアチブ。「押しつけ教育基本法論」はない。この意義。南原繁 教育委員会委員長、教育刷新委員会(副委員長、委員長)1946-47年 第1特別委員会(務台理作、森戸辰男、天野貞祐、河井道ら)前文・1条・2条審議 貴族院憲法改正特別委員会 「教育勅語に代わるもの‥を希望する」 生みの親(田中耕太郎と南原) 人間性の涵養(「人格の完成」)、「個人の尊厳、真理と平和を希求する人間の育成、 普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造」 ⇔南原 「新日本文化の創造」「人間革命」「精神革命」 (教育委員会法→)地方教育行政法・教科書法に反対する十大学長声明 2 基本法擁護の精神に基づく改正反対 (1)コミュニタリアニズム的基本法 徹底したリベラリズム 価値の排除 教育基本法廃止論を帰結 基本法否定の精神による擁護という逆説 ⇔コミュニタリアニズム 美徳倫理学 人格の完成(perfectionism)、道徳・美徳・「資質」 ただし、道徳の法制化には消極的、教育は重視 平和憲法 コミュニタリアニズム的憲法 教育基本法 コミュニタリニズム的基本法 前文の付加 (2)ソクラテス的精神 ソクラテス的精神 自由な学芸精神、人間の魂への配慮 学問的探求(無知の知)+魂への配慮 ⇔(基本法)真理・学問の自由+人格の完成・諸徳 教育基本法 「人格完成+教育の自由」→前者は否定せずに増強・修正し、国家統制を可能にする改定案。 …「人心の荒廃・道徳的退廃などに対する懸念」という人心への対応 この要請を軽視・否定するのではなく、直視する必要性。そうでないと庶民的な保守層に反対が広がらないのではないか。 典型的には2条 個々人における「心の自己統御」は倫理的には極めて重要、しかし…「心の国家支配」の危険 政治的文脈 教育統制の強化、国家主義的教育 16条・17条 →2条(教育の目標)の悪用が可能になる。 2条における様々な美徳 美徳倫理学の観点から見ると、個々の美徳は基本的には健全、貴重。 しかし、倫理学の問題は美徳の内容と共に(衝突の際の)その優先順位と方法。 そこで、16条・17条における国家統制によって、優先順位が決定され強制されると危険になる。 例:5項 「我が国と郷土」と「他国を尊重し、国際社会の平和と発展」の関係 ⇔グローバル・ナショナル・ローカルという複層的アイデンティティー 双方とも大事だが、単純に列挙することにより、国家的観点を地球的・国際的観点に優先させることが問題。 実際には、国旗国歌法のように、国家主義的統制に用いられる危険性。 逆に言うと、様々な改正条文については、それぞれ検討が必要。全面的に悪いとは言えない。 3 公共の精神 (1)経緯と文脈 2条3「公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。」 これ自体は批判すべきではない。現行基本法の精神に立脚して明確にしたと考えられる。 ――公共民的美徳(civic virtue)、市民性の教育という観点から肯定。中にはこの点に着目してこの改定案を肯定的に評価する議論すら存在。 しかし、実際には第1条(教育の目的)において、「人格の完成」と並んで、「国家及び社会の形成者」とされた「心身ともに健康な国民の育成」が2大目的とされている。すなわち、国家に限定された国民教育 具体的には、中央教育審議会・中間報告素案(2002.10月) 「『公』に関する国民共通の規範の再構築…国や社会など『公』に主体的に参画する意識や態度を養う。伝統、文化を尊重し、国や郷土を愛する心を持つ」 →異論(「『新たな公共』の概念が個人を無視した感じにならないように工夫すべきだ」)など続出。 [...]
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木曜日, 5月 1st, 2008
4月17日に名古屋高裁で、イラクで航空自衛隊が多国籍軍を空輸していること について画期的な違憲判決が出た。 それによれば、イラク、特にバグダッドは、イラク特措法が自衛隊の活動を認め ていない戦闘地域に該当する。空自の多国籍軍武装兵員の空輸は他国の武力行使 と一体化しているとみなされるから、戦闘地域における武力行使ということにな る。だから、これはイラク特措法に違反し、さらには憲法9条1項に違反する活動 を含んでいる。 平和的生存権の侵害までは認めなかったが、これに具体的権利性を認めている点 でもこの判決は画期的である。 9条をめぐる違憲判決は、1959年の砂川事件1審、73年の長沼ナイキ訴訟1審以 来の3度目であり、実に35年ぶりで高裁としては初めてである。しかも、結論は 原告敗訴なので勝訴した国側は最高裁に上告できず、これで判決が確定する。 メディアで、喜ぶ原告の様子が報じられ、天木直人元駐レバノン大使や「自衛 隊イラク派兵差止訴訟の会」の池住義憲代表、弁護団の川口創事務局長の言葉や 姿が伝えられた。これを見て、私も目頭が熱くなり、深く喜ぶとともに、しばし 感慨に耽った。私自身はこの訴訟に直接関わっているわけではないけれども、そ の志を共有する者としてエールを送り連帯してきたからだ。 2003年元旦に結成された地球平和公共ネットワークにとって、天木大使が辞任 されてからすぐに行われた、「日本外交と『反テロ』世界戦争――前レバノン大 使・天木氏を迎えて-――」シンポジウム(東京大学駒場、2003年11月2日)への 協力は、その初期の重要なイベントだった。天木氏にはその後も、私たちのシン ポジウムにパネリストとして参加していただいた。 そして、初めての独自の具体的な平和アクションとして主催したものが、イラク 派兵訴訟説明会「イラク派兵差止め訴訟を参加・応援し、憲法9条を守ろう!― ―“おかしい事をおかしい”と国に言う池住義憲さんを迎えて-――」(2004年3 月21日)だった。今でも、旧HPに残っている。 http://global-peace-public-network.hp.infoseek.co.jp/index-j.html (以下に付しておきます) 天木氏も加わられたこの愛知の集団訴訟に、関東からも原告として加わる人を 募るべく、この説明会を開催したのだった。私自身は、「決定的違憲」という概 念を用いてくれた山梨の市民グループ(「派兵は決定的違憲」市民訴訟の会・山 梨)の違憲訴訟に原告として加わり、違憲訴訟の「同時多発」的な全国的展開を 願った。 もともとこれらの訴訟で勝訴するとは思っていなかったから、山梨をはじめ各 地の訴訟で敗訴しても失望することはなかった。逆に、今回の違憲判決は大きな 嬉しい驚きである。私は「決定的違憲」という概念で、「裁判所はこと自衛隊イ ラク派兵には統治行為論を使わずに違憲判決を下すべきだ」と主張したが、名古 屋高裁はまさにそうしたのだった。 審理を担当した青山邦夫裁判長は、この判決の直前の今年3月に依願退官をさ れ、後任の裁判長が判決を代読したという。その背景にある青山氏の思いの真剣 さは想像するに難くない。この判決には、一人の人間の生が凝縮している。天木 元大使の辞職もそうであったように。 天木氏らと平和憲法を救うために熱く語り合ったこともある。その後、天木氏は 国政選挙に2度出馬したものの当選はできず、これまでの道のりは決して平坦な ものではなかった。判決は、明らかに天木氏を意識して、「(訴訟に込められた )切実な思いには平和憲法下の日本国民として共感すべき部分が多く含まれてお り、政治的敗者の個人的な憤慨、不快感、挫折感にすぎないなどと評価されるべ きものではない」とまで述べている。「外務省を辞めて5年間、すべてがこの判 決で報われた」という天木氏の判決後の言葉(東京新聞、16日)には万感が込め られていよう。 天木氏も出馬された昨年の参院選で自民党が敗北するまで、平和憲法の生命は 空前の灯火であるように見えた。もし自民党が勝利していたら、今頃は安倍内閣 は改憲に向かって突き進んでいたに違いない。そのような状況であったならば、 果たしてこの判決がありえたかどうか。 幸い、選挙の敗北によって安倍内閣はやがて崩壊し、平和憲法を一気に放棄し [...]
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土曜日, 1月 26th, 2008
稲垣久和(東京基督教大学)「温暖化問題と公共信託論」 (1月25日 北海道新聞 夕刊 文化欄に掲載) 今年、七月に、洞爺湖で地球温暖化をテーマにG8サミットが開かれる。昨年末に福田首相は中国を訪問した。中国はアメリカに次いだ温室効果ガスの多量排出国である。 温室ガスの削減は、現代人のライフスタイルを変えないでは無理である。人間に一番難しいのは、ライフスタイルを変えることではない。ライフスタイルを変えるための「思想」を変えることの方である。思想を変えないでライフスタイルを変えた気になっても、また元に戻るだけであろう。思想が変わったときに、ライフスタイルもまた変わる。だが、現代人がその思想を変えることはきわめて困難なのだ。 温暖化問題に対処するということは、近現代文明を牽引してきた思想を変えることだから、まず出来ない相談だと考えてよい。近現代文明は人間の「欲望を解放する」ことが善であった。しかし今や「欲望を絶つ」ことが善だと言われているのである。欲望を絶つことができるのは「聖人」だけだろう。 しかし、生身の人間が、「聖人」になるのは不可能ではないのか。では、温暖化問題に対処するにはどうすればよいのだ。国家権力の力によって、強制的に「聖人」にさせられるということであろうか。これはブラックユーモアに近い。 一人ひとりが「聖人」になるとは、欲望をコントロールできる大人になれということだろう。このことは、実は、それほど突飛な考え方ではない。というのは、憲法前文にある「そもそも国政は、国民の厳粛な信託による」の部分の英訳は「Government is a sacred trust of the people」となっているからだ。ここで「sacred trust」とは「聖なる信託」という意味だからである。六十歳を過ぎた日本国憲法は、われわれ一人ひとりが欲望をコントロールできる「大人」になることを期待しているのである。東アジアの戦後史は、「五十にして天命を知る」(論語)の境地に入ったのだろう。互いの愛国心を抑え、国境問題でいがみ合うよりも、歴史認識を共有しつつ和解(和諧)を目ざせ、と。 「信託」も重要である。筆者は公共信託論という発想で環境倫理を見直したい、と考えている。現憲法にある「信託」の考え方を、国境を越えた「新たな公共」へと全人類的に拡大するとともに、それぞれの地域やNGO、NPOなど環境保全や生活のニーズに応じて、中間集団の持つ「領域主権論」を基本に据える。公共信託論によるサービスの担い手は「市民」であり、「行政」であり、「企業」である。立憲主義を尊重しつつ、しかし国民主権という抽象性に安住することなく、生活領域に委託された主権性を活かせ、という主張である。領域主権論は、何よりも、生活者がさまざまな領域で生じるニーズを大切にし、一人ひとりの内面の自我を磨き上げて、良心に基づいた実践を促していく。 市民一人ひとりの自立した磨かれた自我は、国境を越えて「他者」を配慮でき、徳性を備え、自分と異なる考えを持つ者に寛容な人格でありたい(これが「聖人」になるという意味である)。あくまでも市民の自発性と自治を重んじ、「よき社会」を作るために各領域がサポートし合い、国家はこれを補完する。 もともと日本の伝統は、古代から、このような多様な「他者」を受け入れ、共存させてきた多元的で、重層的な社会であったはずだ。古代の仏教、儒教、道教の受容から始まり、キリシタン、啓蒙主義、近代の新宗教、戦後のさまざまなイデオロギーの受容等々。もし、日本のアイデンテイテイーを確立したいのであれば、このような多元的な思想が共存できる、いや古くから共存させてきた、日本人の寛容な互助の精神に見出すべきではないか。 ちょうど半世紀前の一九五八年、敗戦後の指導的知識人・南原繁は戦時中に書いた「国家と宗教」の版を改めた。その「改版の序」の冒頭に次のように記した。「或る時代または或る国民が、いかなる神を神とし、何を神性と考えるかということは、その時代の文化や国民の運命を決定するものである」。続けて「真の神が発見されないかぎり、人間や民族ないし国家の神聖化は跡を絶たないであろう」と。国家ではなく国民の方が「聖人」になるべし、ということではないか。筆者が昨年末に上梓した「国家・個人・宗教-近現代日本の精神」(講談社現代新書)は、「国家と宗教」への今日的レスポンスを意図したつもりである。
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火曜日, 12月 25th, 2007
稲垣久和「南原繁へのレスポンス」〔読書人の雑誌『本』1月号(講談社)より引用〕 人間は理性の動物か、情念の動物か。近代科学以降、理性は特権的地位を与えられた。もちろん情念も芸術や文学で重視されてはいた。では、社会生活や政治の世界ではどうか。答は、理性も情念もその両方があったということなのだが、建前的には、近代政治の仕組みは良くも悪くも「理性」によって社会を作り上げる。 啓蒙主義からはじまって、自由主義・資本主義はそうだった。またそれと対抗的な社会主義・共産主義もそうだった。「科学的合理性」は自由主義、共産主義の両者に共通な「普遍的ものさし」であった。冷戦期にはこの両方が東西イデオロギーとして国際政治を強く縛って対立を深めていたわけである。 とはいえ実際には、東西の両陣営とも、これらイデオロギーを支えているナショナリズム的愛国心は「情念」に深く関わるものであった。人々が理性だけで動いていないことは明白である。 ところで、東西イデオロギー対立が崩壊したあとの世界は、どうなったのであろうか。そこには、啓蒙主義近代が想定していた「理性と情念」の二項対立では測れない現象が多く出てきている。つまり「宗教」や「民族」の問題である。特に「宗教」は、近代啓蒙主義以降は封印されてしまったのであったのだが、これが新たな装いで浮上してきたのである。 西側でも東側でも、宗教はなくなったわけではない。“政教分離”によって個々人の内面に「私事化」されていた。それが、イスラーム世界の原理主義の登場以来、二十一世紀に宗教は再び外面に登場してきた。ポストコロニアルな民族の問題も単なる「情念」ではなく、宗教的ないしはスピリチュアルなアイデンティティーと絡んでいる。 日本でも、小泉政権下の「靖国神社」参拝、安倍政権下の改正教育基本法の「愛国心」と「公共の精神」も、実はこのグローバルな宗教的、スピリチュアルなアイデンティティーと関わっている。特に靖国問題はきわめて日本に特徴的な宗教・政治的現象だ。単なるナショナリズムということであれば、グローバルに共通の問題なのだが、靖国には明治国家成立時の独特のスピリチュアリティーが横たわっているからだ。 宗教は、結局、いつの時代も、なくならないのだと思う。コント的な実証主義や進歩史観では、宗教は弱まって科学の時代に移行するはずだった。しかし、もはや、啓蒙のプロジェクトが挫折しているのは誰の目にも明らかだ。そうだとすれば、どのような形で宗教を人々の幸福に生かしていくべきかを、学問の課題として方法論的にも明確化する必要がある。 ただ、いわゆる宗教学や宗教社会学といった価値中立な手法では、この問題は十分に扱えない。哲学、政治学、法学、社会学などを視野に入れつつ学問横断的な手法が必要になる。ここで、最近の日本の学会でトランス・ディシプリナリーな関心で展開されている公共哲学は強力なツールとなる。 筆者の立場から、公共哲学の内容を簡単にをまとめておこう。 個人の自由を尊重すると同時に他者の自由を尊重する。 宗教やスピリチュアリティーを公共の場で正しく位置づける。 愛国心の対象は国家(=公)ではない。愛は国民にそして市民、隣人(=公共)に向かうべき。 政治、経済、社会、福祉、教育、環境、宗教、科学技術を包括的・対話的に扱う哲学。 なかでも公(=国家)と公共(=市民社会)の区別は重要で、特に私事化された宗教心やスピリチュアリティーを解き放つ際に、国家や政府と結び付くことによる危険性(戦前の国家神道の再来としての靖国参拝や愛国心の過度の喚起)に注意する。 その上で、市民が「下から上へ」とかもし出す隣人愛、慈悲の心、仁の心が市民社会に連帯を与えるエートスを提供する。 宗教は両刃の剣だ。宗教は共同体を結び付け一体感を与える機能を秘めているだけに、一人ひとりの人間の「良心」を殺す方向性にも働きうるということである。他者を同化して共同体に縛っていく道具になってしまう。近代がいかに批判されるべき面を持つとは言え、人間の内面の良心を尊重し「人権」として法的に保障したことは大きな成果である。 したがって、共同体の一体感を与える面にウエートを置く宗教と、一人ひとりの内面の自由と良心とにウエートを置く宗教では、同じ「宗教」でも性格がまったく異なる。単に宗教心の復興が重要であるといっているのではない。人間を内側から変革して、他者への「寛容」のモラルを示す宗教性こそが、市民社会形成に資する、と主張したいのである。 そう考えると、改正教育基本法の「公共の精神」の導入(前文、第二条)は議論の出発点になる。公共哲学では「公共」に従来のような国家や行政の意味ではなく、「市民」の間に開かれたフォーラムとしての意味を与えているからだ。 今日、ほとんど忘れられているが、戦後の旧教育基本法制定に関わった南原繁、彼の政治哲学は、民族や宗教の問題を深く考えていた。再検討されてしかるべきである。ただ、その際に彼の「宗教」の捉え方が一つの焦点になる。 南原の主著『国家と宗教』(一九四二年)の、戦後の「改版の序」(一九五八年)に次のようにある。「真の神が発見されないかぎり、人間や民族ないし国家の神聖化は跡を絶たないであろう」。また、東京帝国大学総長として敗戦後初の「紀元節」で講演した「新日本文化の創造」(一九四六年)では、今後の日本には宗教改革と同時にルネッサンスが必要であると述べ、「民族宗教的な日本神学からの解放」のためには単なる人文主義の理想ではだめだとする。 このとき、すでに戦後の「リベラリズム」の行く末を見通した慧眼を示していたのではないか。それだけではない。「宗教に代うるには同じく宗教をもってすべく、ここに新たに普遍人類的なる世界宗教との対決を、いまこそ国民としてまじめに遂行すべき秋(とき)である」とも言い切る。 「無宗教」の日本人よ、目を世界に向けよ、と。続けて「これは一個の主観的信仰や憶測から立言するものではなく、精神史研究の学問的立場から客観的に主張し得ることである」と。宗教、政治、社会を総合的に扱える学問的方法論の開発を促していたのである。今回、上梓した『国家・個人・宗教——近現代日本の精神』は、この『国家と宗教』への筆者なりのレスポンスである。 詳述してはいないが、筆者の本書にはもう一つの主張がある。それは「国家主権」の再考である。 かつてヨーロッパ中世での「教会」という共同体組織が、宗教改革後の動乱を経て、近代には「国家」という組織に置き換わった。国家を国家たらしめているのは主権概念である。国家主権論はボダンの提唱から、ホッブズに受け継がれルソーによって国民主権論となった。しかし、ルソーの近代国民国家の社会契約論は、一つの難点をはらんでいた。個人個人が契約を結ぶという「理性」に訴える面だけではなく、市民宗教(公民宗教)と呼ばれる名の強固な愛国心、つまり「情念」を通り越した一種の「宗教」を要求していたのである。 ルソーのアポリアを逃れるには、国家よりも市民社会を強くする必要がある。「国民主権」の抽象性を脱構築して、各種市民グループに分散した「市民主権」さらには「領域主権」を構想する必要があるのだ。近代の国民国家の限界が指摘されている今日、地方分権の流れと同時に、市民が生命、生活、生存のニーズのために環境、福祉、平和、共生を目指して、国境を越えた自発的な大小さまざまなNGO/NPOなどを結成して、友愛に基づいて連帯していくことの重要性がここにある。
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火曜日, 9月 11th, 2007
大学教職員のみなさま 下記アピールに参加して、呼びかけ人・賛同人になってください。 なお、参加にあたっては以下をお読みください。 1)呼びかけ人として、賛同人としてのどちらでご参加か明記してお知らせください。 2)呼びかけ人として参加のかたは氏名・所属大学名を公開します。 3)賛同人のかたは、氏名公開でも、匿名でも結構です。氏名公表の可否をお知らせ ください。(公開の意思のある場合は必ず、その点をお知らせください。明示的に 公開可のご連絡がなければ、匿名として扱わせていただきます。) 4)呼びかけ人・賛同人は「改憲に反対する大学人ネットワーク」という名称で活動します。ただし、アピール賛同の一点でのみ一致するゆるやかなネット ワークとします。 5)参加呼びかけ対象の範囲は、大学教職員とします(大学で研究・教育を行なっている、非常勤講師・研究員を含みます)。 6)アピール発表期日は2007年3月22日です。それ以降も参加を募集します。第二次締切を5月7日としますので、できるだけ、それまでにご連絡ください。 7)ご連絡は、メールアドレス、 yamane@yokohama-cu.ac.jp までお願いいたします。 改憲に反対する大学人ネットワーク呼びかけ人一同(当初) 加藤千香子(横浜国立大教員)、久保新一(関東学院大教員)、 小林正弥(千葉大教 員)、清水竹人(桜美林大教員)、 高原孝生(明治学院大教員)、竹内久顕(東京女子大教員)、 千葉眞(国際基督教大学教員)、藤本光一郎(東京学芸大学教員)、 山根徹也(横浜市立大教員) 改憲と国民投票法案に反対する大学人アピール~不公正な改憲促進手続法案に抗議する~ 改憲の動き 安倍政権は、任期中の改憲をめざすことを明言し、さらに、今年年頭には改憲を夏の参議院選挙における争点とすると言っています。 日本国憲法は、戦争放棄(交戦権禁止・戦力不保持)、基本的人権の尊重、主権在民原則を定め、個人の尊厳を保障するために、そのかぎりにおいて国家が存在し、活動することを定めているのであって、これらの原則は、決して揺るがせにしてはならないものであります。 にもかかわらず、自民党はその改憲案において、九条を改変して国家が戦争をすることができるようにし、あわせて、「公益及び公の秩序」なる概念を用いて基本的人権に制限を加え、民主主義の原則を実質的に解体しようとしています。 自民党の現改憲案は日本国憲法の基本原則を葬り去り、再び戦争のできる国家体制を築こうとしているのです。そのような改憲は絶対に許されてはなりません。 国民投票法案の危険性 安倍政権は、国民投票法を今通常国会で成立させたいとしています。同政権は、これを改憲の出発点にしようとしているのであり、そのことを隠そうとはしていません。国民投票法案は、中立的なものではなく、きわめて不公正であり、政権がめざす改憲のための道具にほかなりません。 また、政府の国民投票法案は、マスメディアを利用した有料コマーシャルを野放しにするなど、公正、公平な言論の機会保障をしていません。さらに、公務員や、大学教員を含む教員の発言・行動を「地位利用による国民投票運動」として禁止しており、言論の自由の重大な侵害を政府に許そうとしています。 国民の基本的人権を侵害するこのような内容は、まさに今回の国民投票法案が、自民党の改憲案を強行成立させるための道具であることを如実に表しています。 改憲と国民投票法案に反対する わたしたちは、大学という場で教育・研究に携わる者として、平和・人権・民主主義を脅かす危険な改憲の動きと、国民投票法案に反対し、ともに声を挙げるよう、国内および国外のすべての人々に訴えます。 2007年3月22日 改憲に反対する大学人ネットワーク(現在274名)
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月曜日, 1月 15th, 2007
〔※山脇直司『公共哲学とは何か』(ちくま新書、2004年5月)第5章からの抜粋〕 現下の教育基本法改正(改悪)案をめぐる議論が示すように、「教育と公共性」はホットな争点となっています。しかし、中曽根元首相や読売新聞編集部などに代表される改正(改悪)論者が言うように、「個人の尊厳」を強調するあまり「公共性」がないがしろにされるという考え方は根本的に間違っているというのが、公共哲学の譲れないスタンスの一つです。 1889年の明治憲法とペアになって1890年発布された教育勅語は、「滅私奉公」を説くものとして戦前に忌々しい結果をもたらしました。その反省として、戦後の日本国憲法とペアになって生まれた教育基本法は、「個人の価値と責任」を謳っています。教育基本法第1条を、ここでもう一度引用してみましょう。 「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値と責任を重んじ、自主的精神に満ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行なわなければならない」 しかしこうした教育思想は当時、復古的国家主義者のみならず、いわゆる左翼勢力からもブルジョア的個人主義として批判されていたのです(小熊英二『民主と愛国』新曜社、2002、頁参照)。実際、戦後の日教組などでは、第二章9節で触れたように、ソビエトのマカレンコの「集団主義教育」論が影響力を持ち、「個人の価値と責任」などはむしろブルジョア・イデオロギーの一つとみなされていたことは否めません。 いずれにせよ、戦後教育の現場では、ソビエトのコルホーズやソホーズを称えたり、レーニン主義的な集団主義を理想と説くなど、今から思えばとんでもない幻想を生徒に植え付けようとする左翼教師が数多くいたことは確かです。そして恐らくそれは、戦後日本において、マルクス・レーニン主義が宗教のように受け取られたことと大いに関係があるでしょう。また、たとえマルクス主義を信奉していない民主的教師の間でも、「復古主義VS民主主義」という闘争図式の前に、「個人の尊厳」などに関する哲学はあまり追求されてこなかったように思えます。民主主義を支える「個人」の問題がないがしろにされてきたのです。 もちろん例外もあったでしょうが、いわゆる人権派教師の多くが人権の本来の意味とエゴの権利行使との相違を明確にしなかったのは、日本の教育にとって真に不幸なことでした。そしてそうした事態への反動が、1970年代後半から1980年代までの管理教育強化となって現れ、さらに1990年代以降のいじめや学級崩壊の頻発を経て、現下の教育基本法改悪案を招来したと考えるのは、強引すぎるでしょうか。 このような戦後教育の行き詰まりに対し、活私開公を掲げる公共哲学は、教育基本法改正(=改悪)論者に抗し、「個人の尊厳」と「公共性」を対立的にではなく、相互補完的に捉える教育観を呈示しなければなりません。 実際、南原繁らの影響の下で記された教育基本法の条文は、その双方を明記しているのです。この条文に出てくる平和、正義、責任などは、公共世界を構成する重要な価値理念ですし、人格の完成のみならず、健康な「国民」の育成までも条文で謳われています。ですから、この条文で始まる教育基本法が公共性に関する言及に乏しいなどという改正(=改悪)論者の主張は、「民の公共」を「国家の公」と取り違える歪んだ公私観に立脚していると言わざるを得ません。 このことを踏まえた上で、活私開公の哲学は、第一章4節で述べたように、80年代以降日本でみられる「滅公奉私」というミーイズム・エゴイズムが「滅私奉公」の裏返しにすぎないことを強調したいと思います。そもそも公共性は、「自分とは異なる他者とのコミュニケーション」があって初めて成り立つ概念です。然るに、滅公奉私というメンタリティやライフスタイルは、自己中心主義で、自分とは異質の他者とのコミュニケーションに関心を持ちません。ですから、当然それは「国家やお上の公」とは異なる「民の公共」というコンセプトを持ち得ませんし、そのような公共世界を創出する努力もしないでしょう。滅私奉公も滅公奉私も、公共世界は上から与えられるものではなく、我々が生成させる世界だという考え方が不在で、公共性という言葉で「お上の公」しか連想できないでいるのです。 こうした滅私奉公と滅公奉私の双方に反対する「活私開公の教育哲学」は、個人が「異質な他者とのコミュニケーション」の中で活かされ、そのことによって公共性が開花されるような教育理念を掲げます。個人の尊厳は、「自己」の尊厳のみならず「他者」の尊厳を必然的に意味すること、そしてそのような人間観が「公共性の母胎」となることが、幼い頃から教育の現場で伝えられ、学習されなければなりません。これはまた、「個性の尊重」という理念にも通じます。 「均質なみんな」が公共世界を創るのではなく、アーレントが言うように、「共通性と異質性」を兼ね備えた人間同士が公共世界を創るのです。したがって、「個性尊重」の教育と「公共性涵養」の教育は、補完し合わなければならないのです。 もちろん、これをきれい事と批判する人もいるでしょうが、ともかく滅私奉公や滅公奉私に対抗する「活私開公の教育哲学」は、このようなビジョンを語るしかありません。あとは、現場の先生方がこうした「自己―他者― 公共世界」観をもとに、教育をいかに実践するかに教育の蘇生はかかっているのです。
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木曜日, 1月 4th, 2007
教育基本法改正案の大きな争点は「愛国心」の導入である。しかし「公共の精神」(前文、2条3項)の意味も問題だ。というのは「公共」の意味が改正案全体の中で整合的に吟味されていないからである。 「公共」とは、一口でいえば「特定の国民だけでなくすべての人に開かれている共通の関心事」で、「異質な他者と対話し、触れあいながら、協働で生活を築き上げる広場」を意味している。「市民社会」を形成するためのダイナミックな概念だ。 これに対し、「公」は従来の日本語では、国、官、政府、お上、天皇といった「おほやけ」の意味で使われてきており、両者はまったく違う。 改正案には「法律に定める学校は、公の性質を有する」(6条1項)、「私立学校の有する公の性質」(8条)と「公」の言葉も使われているが、文脈に沿って読む限り「公」と「公共」は何も区別されていない。 意味の違いを考えれば、私立学校が有する性質は「公」ではなく「公共」のはずだ。要するに今回の法案は、「公」や「公共」という日本語の言葉や概念の使い方がいいかげんで、まるで「伝統と文化を尊重」(2条5項)していない。こんなずさんな法案を「教育の憲法」として、確定していいのであろうか。 今回の法案に先立ち、文部科学省の中央教育審議会が02年11月、教育基本法改正についてまとめた中間報告では、「公共」は国境を越え、国際的に市民社会の成熟を目指す積極的な概念ととらえていた。 それは例えば、「地球環境問題など、国境を越えた人類共通の課題が顕在化し、国際的規模にまで拡大している現在、互恵の精神に基づきこうした課題の解決に積極的に貢献しようという、新しい『公共』の創造への参画もまた重要」といった表現に見てとることができる。 だが、03年3月の最終答申では、この一文はなくなり、中間報告で感じられた新たな市民的公共性の息吹は抑え込まれてしまった。 この方向は、国会で審議中の改正案でも踏襲されて強化され、「公共の精神」は「公の秩序」と同義語になってしまった。新しい「公共」と古い「公」(=お上)の違いはとてつもなく大きい。 前文などに「公共の精神」として盛り込まれている「精神」の意味も気になる。そもそも、第2条で「教育の目標」と称し、法律文にくどくどと徳目や「精神」が説かれていることも問題だ。精神主義を鼓吹しているのではないか。 愛国心と同時に連想するのは戦前の民族精神である。この場合の「精神」は少し歴史を調べれば分かるように「滅私奉公の心」という内容をもっていた。 「公」にしろ、「公共」にしろ、国家や国民、市民社会の根幹にかかわる言葉だ。戦後60年を経てもなお、これらが十分に深められていない中で、教育基本法や憲法が改正されようとしている。仕切り直しをして国民的な議論をもっと深めることを提言したい。 ◇ 47年生まれ。著書に「宗教と公共哲学」「靖国神社『解放』論」など。 同記事の参考文献として以下の2書を挙げておく。 (1)稲垣久和著『靖国神社「解放」論』(光文社ペーパーバックス、2006年)45-65頁からの要約 ・滅私奉公の「公」とは何か 公に命を奉げる、滅私奉公とは私自身を押し殺して(滅して)公に奉仕する、という意味です、戦時中に頻繁に使われた言葉でありました。そもそもここでいう公とはどういう意味でしょうか。 公という言葉の日本での使われ方を近年の研究から簡単にまとめると、以下のようなことです[1]。 古代日本では、大きなイエ(大豪族)を指すオホヤケ(大宅)と、小さなイエを指すヲヤケが重層的になり、それによって権力構造ができていました。8世紀の律令国家成立期になって、中国語の「公-私」の概念が輸入され、オホヤケが公に引き付けて理解されました。それ以後の日本で「公」は天皇、貴族の支配階層をそしてやがて国家機構や官を意味する概念として使用されてきました[2]。それに対して民に重きをおいた「公共」という言葉が登場するのはずっとあとで、江戸時代の儒学者の文献が初めてであり、特に幕末期の横井小楠によって明確な意味を込めて使われました。 しかしながら、明治維新は維新とはいうものの現実には王政復古であり、古代律令体制を復古するような体裁をもってスタートしました。もっとも古代律令体制とはいっても、天皇の権力は形式的なもので、絶対主権的天皇などというイメージとはほど遠いものでした。それに比べて、明治近代では西洋式に強い君主主権を導入し、公共ではなく<公=国家、天皇>に権力が集中されることとなったのです。公に命を奉げるとは、天皇に命を奉げるということであり、これが靖国神社(東京招魂社)の起源となりました(これについて後に詳述します)。もっとも今日では、公園、公衆、公務員などのような共同、共有のような意味でも「公」という言葉が使われている面もあることは注意しておいでしょう。 日本が「公」という言葉を輸入した中国での「公」の使われ方について、簡単にコメントしておきます。というのは日本とかなり様子が違うからです。中国における「公」は日本と同様な①朝廷、政府、国家 ②社会、共同、共有、の意味に付け加えて③平分、公平、公正、の意味が強くありました[3]。なぜ中国では「公」に③公平、公正の意味が付け加わったかというとそれは、「天」の観念があるからです。 中国には古来、天が民を生ずるといういわゆる生民の思想、すなわち民は国家・朝廷に帰属するのではなく、天・天下に帰属するという思想がありました。だから天の観点に立てば、民衆が「公」で、朝廷・国家が私とみなされることすらあるというのです[4]。今日の共産党政権のもとでも、中国で民衆の力が強いのは、また近年の草の根NGO[5]の目ざましい活動は政府ではなく人民こそが「公」であるという、中国の伝統思想からきているのでありましょう。 ・滅私奉公から活私開公へ 「公共」という言葉は日本国憲法に「公共の福祉」という言い回しで4回(12条、13条、22条、29条)も使われています。それにもかかわらず、その意味が十分に確定されていません。筆者は公共哲学という名を冠した本を書いていますが、そこで「公共」の意味を詳しく説明しました。公共哲学は英語のpublic philosophy の輸入版ではありません。そもそも公共哲学の「公共」は英語のpublic よりもずっと広い意味を持っていて、東アジア的、儒教的概念として理解した方が正しいのです[6]。すなわち、「公」ではなく「公共」へシフトさせ、この閉鎖的、特権的な公を開いていく努力です。「私」を滅私という方向で忍従させ殺す方向ではなく、積極的に活かしていく、こういった発想を近年の公共哲学運動では滅私奉公ではなく活私開公と呼んでいます[7]。ここで「私」の意味は「自己」であり同時に「個人」であるような人格ということです。かけがえのない私、他に替えがたい希少価値としての私、人権や権利の主体である私、ということです。明治の近代以降、特に戦時中にはこの「私」の領域がほとんどなく、「公」である天皇に直接に従属し吸収されていくような傾向が強くあった(滅私奉公)、そのことを後に詳しく見ます。 最近、愛国心の強調や、教育基本法の改正の動きのなかに、ふたたび、公や国家への従属を奨励する戦前回帰のような論調が強くなっているのは要注意です。それは戦後社会において、「私」が私利私欲のみを主張するエゴイズムとはきちがえられたことへの反動でありましょう。 滅私奉公的な公私二元論に近い政治思想は、西欧でも存在しました。それは、近代には、官僚制に支えられた家父長制的[パターナリスティック]なシステム世界として現れました。これに対して、市民の生活世界と、そこでのコミュニケーションにもとづいた現在にあるべき民主主義を、市民的公共性という言葉と概念によって示したのは、ユルゲン・ハーバーマスでありました。ハーバーマスは『公共性の構造転換』の新版序言(1990年)で、今日的な民主主義の目標を「生活世界の擁護」のため、と次のように述べています。 目標は、もはや自立した資本制的な経済システムと自立した官僚制的な支配システムとの《止揚》などではなく、生活世界の領域を植民地化しようとするシステムの命令の干渉を民主的に封じ込めることである。……その結果、連帯という社会統合の力が貨幣と行政権力という他のふたつの制御資源がもつ《権力》に対抗して貫徹され、それによって生活世界の使用価値志向的な要求が通るようになることをめざすのである[8]。 公権力と市場、その双方からの圧迫、これらが地域住民や市民の生活世界を植民地化しようとします。そこで、この生活世界の近くに社会学的なアソシエーション(結社)関係を対応させ、この多様な結社、NGO、NPOなどが、公共的討論に参加して政治が決定されていくようなプロセスを描いています。これが新たな公共性を成り立たせる市民社会の姿である、と。そしてさらに 《市民社会》の制度的な核心をなすのは、自由な意思にもとづく非国家的・非経済的な結合関係である。もっぱら順不同にいくつかの例を挙げれば、教会、文化的なサークル、学術団体をはじめとして、独立したメディア、スポーツ団体、レクレーション団体、弁論クラブ、市民フォーラム、市民運動があり、さらに同業組合、政党、労働組合、オールタナテイヴな施設にまで及ぶ[9]。 「非国家的」とは公権力から距離を置くこと、「非経済的」とは市場原理主義から距離を置くことを意味します。ハーバーマスによれば、東欧の民主主義革命を経て、ヨーロッパの1990年代は、市民的公共性の再発見の時期にありました。この延長上にEU(ヨーロッパ連合)の新たな民主主義があるのです。それは60年前まで戦争をしていた隣国どうしが、19世紀的な国家主権を弱め、市民主権に移行しつつある努力をしている姿です[10]。 しかし日本の場合はどうでしょうか。近隣諸国と東アジア共同体を築くことはおろか、むしろ逆に、いまだに国家主権をゴチゴチとぶつけ合って摩擦を起こしている状態ではないですか。首相の靖国参拝はその大きな原因の1つです。これを克服するにはどうすればよいのか。 まずは、公私二元論の現実を直視し、その現実の克服から出発することです。国内に残る滅私奉公の風潮や官僚主導の政策決定プロセスを打破し、市民層が成長して自治能力をつけること。ネオリベラル路線ですべてを市場化するのではなく、「官から民へ」をたんに郵政民営化に矮小化するのではなく、地方分権などを税源移譲も含めた形で具体化すること。地域の住民が自覚した主体として立ち上がること。そして、日本の最大の構造改革と思われるのは、滅私奉公イデオロギーの具現化としての靖国問題、これを市民の側から解決しようとの意欲を持つことです。これは精神革命になっていくでありましょうが、しかし、市民的公共性の成熟の試金石となるものです。 (2)稲垣久和著『宗教と公共哲学』(東京大学出版会、2004年)237-239頁からの抜粋 ・教育基本法改正の問題 中央教育審議会が教育基本法改正のための答申を、2003年3月20日に文部科学相に提出した。五十数年にわたって日本の民主主義教育の指針となってきた教育基本法をどのように改正しようというのであろうか。答申には「新しい公共の創造」とあるが、これは何を意味しているのか。「公共に主体的に参加し」とあるのに並んで、「郷土や国を愛する心」などの文言にも力点がおかれている。また「日本は天皇を中心にした神の国」発言をした森喜朗前首相、彼の私的諮問機関だった教育改革国民会議の意を受けた基本法見直しであることを思えば、「新しい『公共』を創造し」「公共に主体的に参加し」などの文言は市民レベルの「新しい公共の創造」とは真っ向から衝突するのではないか。教育現場で日の丸・君が代実施を半強制している文科省行政を見ればなおさらその疑惑はぬぐえない。キリスト者の矢内原忠雄が、かつて当時の荒木文相の教育基本法改正の意見を批判して述べた言葉をまた繰り返さねばならないであろう。「日本人に欠けているものは愛国心ではなく、人格観念である。人格は人間の尊さの実質をなすものであって、人間の自由と責任の根底である」(1961年1月「中央公論」)[11]。 中教審はこの答申の前に、2002年11月14日に、その前およそ1年かけて議論してきた内容を中間報告として出している。そのときには「公共」という言葉と概念にはもう少し積極的な内容が込められていた。「新しい『公共』の創造に主体的に関わろうとする態度の育成」といった文言は、戦後の市民運動の成果を取り入れた表現であるかのように見えた。それがトーンダウンし、公共が完全に古いタイプの「公」(=お上)の概念に戻ってしまっている。具体的に挙げれば、昨年11月の中間報告には、第2章「新しい時代にふさわしい教育基本法の在り方について」、1.教育基本法の見直しの必要性、(1)教育基本法見直しの視点の4番目に次のように書かれていた。 「公共」に主体的に参画する意識や態度の涵養の視点 個人は、一人だけで安全に生きていくことができるものではない。自らの生命や自由を守り、自らの幸せを追求するためには、対等な個人が集い、その信託によって社会や国という「公共」をかたちづくることにより、それを通じて自らの安全や権利を享受できるようになるのである。そして、このような「公共」をつくり、維持することができるのは、その構成員であり主権者である国民一人ひとりであって、他の誰でもない。 このことを踏まえ、21世紀の国家・社会の形成に主体的に参画する日本人の育成を図るためには、政治的教養(政治に関する知識や判断力、批判的精神など)に加えて、国や社会など「公共」に主体的に参画したり、自他の権利を守るために「公共」に共通の社会的なルールを作り、遵守する意識や態度を涵養し、個人の尊重との調和を図ることが重要である。また、地球環境問題など、国境を超えた人類共通の課題が顕在化し、国際的規模にまで拡大している現在、互恵の精神に基づきこうした課題の解決に積極的に貢献しようという、新しい「公共」の創造への参画もまた重要となっている。 それが2003年3月20日の答申では次のような陳腐なものに矮小化されてしまった。 人は,一人だけで独立して存在できるものではなく,個人が集まり「公共」を形づくることによって生きていくことができるものである。このことを踏まえて,21世紀の国家・社会の形成に主体的に参画する日本人の育成を図るため,政治や社会に関する豊かな知識や判断力,批判的精神を持って自ら考え,「公共」に主体的に参画し,公正なルールを形成し遵守することを尊重する意識や態度を涵養することが重要であり,これらの視点を明確にする。 ここには、社会が国家に包み込まれてしまうような感のある古いタイプの「国家・社会」というような発想、それが「公共」であるとする矮小化が見られる。まず「国家」が先にきて「国境を超える」ことがない、こういう国家主義のイデオロギーが先行する中でいくら「公共」を語っても、そこでは市民の側からの生活のニードに応じたボトムアップな市民社会の形成とはならない。 そして「地球環境問題など、国境を超えた人類共通の課題が顕在化する中で、『公共』が国際的規模にまで拡大している現在、互恵の精神に基づきこうした課題の解決に積極的に貢献しようという、新しい『公共』の創造への参画もまた重要となっている」という表現の今日的な積極性も削除された。 また「自らの国や地域の伝統・文化についての理解を深め、尊重する態度を身に付ける」という文言があるが、日本の伝統も文化も複数形で語らなければならないということを答申の執筆者は了解しているのであろうか。もしそうであるならばはっきりとそのように書くべきである。すでに見たように、日本の伝統には仏教者やキリシタンが「仏法と王法」「神の法と王法」のはざまで「良心の自由」のために、当時の権力者に抵抗して、抵抗権思想や民主主義思想の萌芽を形成した事実もあるのだから。 [1] 佐々木毅・金泰昌編『公共哲学』シリーズ第1期(東京大学出版会、2001-2004年)第1巻、第3巻参照(以後『公共哲学』第1期は巻数のみ記す)。 [2] 水林たけし「日本的公私概念の原型と展開」(『公共哲学』第3巻所収)。 [3] 溝口雄三「中国思想史における公と私」(『公共哲学』第1巻、36頁)。 [4] 同上(書、42頁) [...]
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土曜日, 4月 17th, 2004
『 朝日新聞』4月16日号夕刊文化欄「Shot04」の記事「『デモかパレードか』論争」に異論あり (2004年4月17日掲載) 『朝日新聞』4月16日夕刊の文化欄「Shot04」に、「『デモかパレードか』論争 平和運動 世代超えて公開討論」 という記事が掲載されまし た(全国版として掲載されたのか、それとも東京本社版だけなのかはまだ聞いていません)。 このサイトの「News」欄 No.113で簡単にご報告した 4月11日の公開討論集会についての記事です。比較的大きな紙面を割いて、この集会を記事にしてくれたことは、関係したものの一人として、ありがたいこと だと思ってはいますが、しかし、その記事の基調には賛成できません。 この記事は、今のイラク反戦運動の中で活発な行動を展開している若者たちと、それより年齢的にずっと上の年配者の世代たちの間に、論争・対立があり、こ の討論集会でも、その違いが浮き彫りになったというニュアンスのものになっているからです。記事の最後は「スタイルの違いは、権力観の違いであることも浮 かび上がった」という言葉で終わっています。現在および過去の反戦運動に関して、たしかに、世代間に意見や感じ方の違いはあり、討論集会で、この記事の中 で紹介されているような意見が出され、議論があったことは事実であり、それ自体は嘘ではありません。しかし、この集会では、相違や対立が浮かび上がったこ とが主要なトーンではありませんでした。私はすでに No.113 の中で、この会についての評価を述べてあります。前日、この記事を書いた記者から電話があり、私の年齢などの確認があるとともに、この会についての感想を 求められたので、それはすでに私のサイトの上に書いたので、それをぜひ見てほしいと要望しました。しかし、私の評価は、この記事にはまったく反映されてい ません。 マスコミとしては、反戦運動の中で、世代間の対立がある、あるいは意見の違いが激しくなっている、という記事のほうが、読者の興味をかきたてられる、と 思うのかもしれません。しかし、この公開討論会のことを報ずるのであるならば、この討論によって、存在していた対立がどうなったのか、この集会が今後どの ような影響を運動にあたえることになるだろうか、ということも当然触れなければならないはずです。パネリストの4人のうちの誰にせよ、こういう形で直接的 に議論をしたことはそれまでになく、公開された形で顔を見ながら直接意見をやりとりするということは初めてのことです。ですから、運動の圏外にあって、こ の間の運動の実態を知らない人が、あの集会での議論を聞いたら、どのような点で、どのように意見が違っているかが、かなり具体的に理解出来たことだろうと 思います。しかしこの間の運動の経過の中で位置づけてみれば、あの集会は、対立や相違を浮彫りにさせ、激化させたのではなく、まったく逆、それまでにあっ た相互の誤解や思い込みがかなり解消し、相互の間の理解が非常に深まり、信頼感も強まったという点にこそ、重要な意味、意義があったと私は思うのです。も ちろん、一度や二度の討論で、相違が解消するはずはありません。今後の更なる努力が必要なことは当然です。しかし、集会の後、私のところに寄せられた意見 は、すべて、その意味で集会は大きなプラスの役割を果たしたという評価を伝えるものばかりでした。 この集会の後、13日、16日と2回、イラクの新聞に意見広告を出そうという計画をめぐる相談会がありました。そこでは、討論集会に若い世代のパネリス トとして参加した小林一朗さんやこの討論集会を最初に計画して準備の中心にあった斎藤まやさん、そしてそれよりさらに若い人びと多数と意見を交換すること になりましたが、そういう場が出来たこと自体が、この討論集会のもたらした成果の一つと言えるものでした。 WORLD PEACE NOW の実行委員会も、そういうメンバーが集まる機会ではありますが、そこでは当面の大きなカンパニアの実務的な準備についての相談が大部分で、一人一人のまと まった思いを率直に交換し、議論するということは時間的にも無理でした。13日と16日の2度の相談会では、出席した年長者は、みな、この自分たちより ずっと若い世代が、それぞれ自分の考えを率直に、真剣に表明し、しかもそれが政治的にもかなりしっかりしたものだという印象を受けて、心を打たれたのでし た。 また、11日の討論集会では、運動についての意見や感じ方の相違は、必ずしも世代間の相違としてだけにくくれないのではないか、という指摘を、私もい いましたし、会場からの発言にもありました。そして「世代」や「年齢」という基準ではない、別の範疇の「選別」「排除」の論理が生じつつあるのではない か、という指摘も出されていました。これはかなり重要な問題点だと思いました。 『朝日』文化欄の記事は、そういう流れ、方向がまったく報じられておりません。私が『論座』3月号の小論でのべたのは、運動の中に議論が少ないというこ とだけではありません。まず、論壇、マスコミの中に運動論がほとんどないことを指摘したのであって、その背景の一つには、運動の中で討論がないこともある だろうと書いたのです。マスコミの記者が、その場かぎりの記事を書くために取材をすることはあっても、運動の流れをじっくりと追い、運動の傾向、趨勢、問 題点などを勉強しようとする姿勢がないということも批判しました。ごく最近になって、運動に触れる論や運動論に関する記事が比較的多くなってきていること は歓迎すべきですが、その内容は決して満足できるものではありません。以上、昨日の『朝日』夕刊の記事を読んでのとりあえずの意見を書きました。
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火曜日, 4月 13th, 2004
いい意見交換でした。――4月11日の討論集会(2004/04/13掲載 ) 「平和公共哲学研究会」主催、グループ「はてみ」協力、公開討論会「デモとパレードとピースウォーク ――世代間対話の試み」 於 東京・荻窪地域区民センター 拘留されている3人の日本人の今後が心配され、釈放と自衛隊撤兵を求める運動が一挙に噴出しているときに、「世代間対話」の討論などという気分になれな いのでは……と心配していたのですが、その日の朝、24時間以内に解放とのニュースが伝わり、ホッとした気持ちで集会に参加できました。それでも、この日 も国会や首相官邸付近での市民の行動は続けられ、そのため、出席予定の人がかなり来られなくなるということもありました。パネリストの一人、天野恵一さん も、参加はされましたが、夕刻に自分の呼びかけ、主催する行動が急遽、計画されたということで、閉会以前に中座されました。討論の途中では、司会者の岡本 敦さん(雑誌『世界』編集長)から、イラクの「サラヤ・ムジャヒディン」が発表した声明が紹介され、大きな拍手がおこりました。 討論は、国会周辺での行動に参加している人びとが間に合うようにと、予定を少し繰り延ばして、午後2時から開会され、途中、2回の休憩をはさんで、午後 7時まで続きました。収容人員100人ほどの会場は、満員となり、予定していた配布資料が足らなくなって、急いで追加プリントするというようなことにもな りました。 4人のパネリスト(天野恵一、小林一朗、小林正弥、吉川勇一)は、それぞれ、レジュメを用意し、ほかに関連文献のコピーなども多数、参加者に配布されま した。主催者が私が用意したプリントは、議論のきっかけとなった私の『論座』3月号の文「デモとパレードとピースウォーク」、私が主催者側にお願いして用 意してもらった文書は、吉川勇一「自由の危機」(鶴見俊輔ほか編『講座・コミュニケーション』第5巻所収 研究社)と、福富節男「共同行動と連帯の条件」 (『デモと自由と好奇心と』所収 第三書館)でした。これとは別に、私は、自分で、東一邦「『左』を忌避するポピュリズム」、同「ネットワークと連帯」、 黒目(関西有象無象)「『内在』する事の可能性のものものききであるのだ」、吉川勇一「.『有事法体制』下の九条的生き方」(『マスコミ市民』03年6月 号所載)をプリントして配布しました。私のレジュメは、これだけでは分かりにくいとは思いますが、最後に掲載してあります。 討論の記録は、いずれ主催者側から、何らかの形で発表されるものと思いますので、ここでは省略しますが、一言で言って、非常にいい意見交換ができた集ま りだったと思います。終わったあと、私の所に寄せられた何通かのメールは、すべて好評で、「予想外に面白かった」、「期待以上の出来、ぜひとも継続して続 きを」、 「小林一朗氏にはいい印象を得た」、「つぎは吉川・小林一朗対談を」などという意見でした。私も、気持ちよく討論に参加できました。ただ、気持ちよすぎた ためか、いささかベトナム反戦運動の経験をしゃべりすぎ、「もう少し謙虚になってほしい」という参加者からの意見をもらったり、出席していた市民の意見 30の会・東京事務局の仲間からは「 吉川さんのあのきつい言い方は、性格の問題でしょうがないんですよ」という発言が出されて笑われたりしました。「人生の賞味期限を過ぎてしまった人間で す」と最初に自己紹介で言ったくせに、いっこうに年寄りらしく円満になれないのは、お恥ずかしいかぎりです。 問題になっているのは、はたして「世代間の差」ということだけにくくっていいのか、という問題は、かなりの人から発言されましたが、いずれにせよ、運動 の参加者の間に、感じ方、問題意識、運動に対する姿勢などの違いがあることは当然で、その間の対話・討論が今後も必要であり、大切だということは共通の認 識になったと思います。とくに、討論の最後のほうで、意識的なものではないにせよ運動の中に「差別・排除」が生じているのではないか、ということがかなり 出されたのは、重要だったと私には思えました。それを、今後、対立・分岐へとすることなく、有機的につなげる方策が、共同で模索されなければならないのだ と思います。 いずれにせよ、この集会は、今後の運動の進展にプラスになると思います。 以上、とりあえずの感想です。 04/04/11討論集会へのレジュメ 吉 川 勇 一 1. 手続き、経過、人選などといった形式的なことでなく、実質的な議論を。これまでの経過はいささか残念だったが、ようやく議論らしい議論が登場。今日の集まりもその努力の一つ。 2. この集会のタイトル「世代間対話」とされているが、必ずしも、「世代間対立」あるいは「世代間の感じ方の違い」とだけでくくれない面もある。 → 関西の黒目「『内在』する事の可能性そのものの危機であるのだ」 しかしまた、60年~70年代の運動経験を持った人たちと今の20~30代の人たちとの間の違いも存在しているのでは → 東一邦「『左』を忌避するポピュリズム」 この間の整理は必要だろう。 3. 『論座』3月号の小論、および、昨年6月号の『現代思想』掲載の私のインタビュー「ベトナムからイラクへ」の主要点 ① 経験の継承ということ、 ② 論壇で運動論が少ないということ 4. 反響が出てきたことを歓迎。しかし、誤解に基づく点もあり、また私の表現のまずさもあったと思うので、2.~3の追加や訂正説明。 ①知識人の参加の問題、その面も確かにあると思うが、もうひとつ、50代(全共闘世代、団塊の世代)のかなりな不参加も影響していないか ②「優しさ」ということ 「いまの運動に議論が少ないと年配者は嘆くが、第一、どこを見ての話か。第二にはたしてそれは『優しさ』の故か。『冗談ではない』」という批判は、私の意見を取り違えた誤解。 参考 條冬樹詩集『優しいうた』 1972年 思潮社刊 5. 『労働情報』3/15号の座談会について――経験の継承ということ 6. 実例二つ ①権力の恐ろしさ → 吉川勇一「自由の危機」(鶴見俊輔ほか編『講座・コミュニケーション』5巻 研究社) [...]
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日曜日, 11月 2nd, 2003
山脇直司(東京大学)2003年11月2日 ご紹介に与りました山脇直司と申します。今の、天木さんのお話を大変興味深く窺いました。特に、レバノンという現場の体験に即して、アメリカのイラク戦の不当性、小泉外交の危険性のみならず、あるべき外交のビジョンまでを示唆してくださったことに、深く感動いたしました。それで私としましては、今の天木さんのお話を補完すべく、外務省との利害関係を全く持たないひとりの学者の立場から、明らかに不当で国際法的にも違法なかたちで、アメリカが起こしたイラク戦争をめぐり、この10ヶ月の間に明らかになった日本外交のおそるべき哲学的貧困とそれを支えた御用学者と呼ばれても仕方のない方々、特に東京大学の先生、また社説で放言を繰り返した一部の大新聞の責任を指摘(追及)して、こうした事態を正すのはどうしたらよいかについて、皆さんに考える材料を提供したいと思います。 今から、9ヶ月前の2月6日にこの900番教室で、元国連大量破壊兵器主任主査官スコット・リッター氏の講演がありました。当日は会場に入れないでお帰りになった方々が500人以上も出るくらいの盛況で、一般の方々の関心の高さを思い知らされたわけですが、聴衆の一人としてまず、そこで彼が話したことのポイントを振り返ってみたいと思います。リッター氏は、自らの体験とデータに基づいて、現在のイラクに国際社会を脅かす大量破壊兵器があるという主張の無理を指摘し、根拠もなくイラク攻撃へと突き進むアメリカ政府を厳しく追及しました。そこで彼が話した最も印象的な言葉を述べて見ましょう。彼はこう言いました。「無条件に抜き打ちができ、イラク側の協力が得られる現在、必要な時間と人員を投入して徹底的に査察を続行すれば、イラクを100%非武装化できます。―――私がこの戦争に反対するのは、非愛国的なことではありません。アメリカの建国の理念、憲法に書かれた「自由」や「民主主義」を守るという愛国的な行為です。―――真の友人は、酔っ払った運転をしようとしている友人を許しません。アメリカの真の友好国ならアメリカの行為にブレーキをかけるべきです。」この言葉からわかるように、彼は祖国を裏切るような反米主義者では全くありませんでした。むしろその逆です。あまりにも理不尽なブッシュ政権の不当さを、逆にアメリカの憲法の精神にもとると確信して批判したのです。 このリッター氏の発言から、10日あまりの間に何がおこったか、振り返ってみましょう。2月14日の深夜、私は固唾を飲んで国連の安保理の実況中継を見ていました。最初にブリックス国連監視検証査察委員長が何を言い出すか、緊張して聞いていたのですが、彼が査察の一定の成果と続行の必要を述べた瞬間、パウエル国務長官の思惑がはずれたことがはっきりし、続くエルバラダイ国連原子力機関事務局長の演説でそれが鮮明となり、シリア代表がその報告に感謝し、フランスのドビルバン外相が古い欧州の知恵を述べ、中国も平和文明の意義を唱えるといった攻勢に出て、アメリカ形無しといった感じで、リッター氏の講演どおりのことが立証された様子でした。ところが、私のショックはこの実況中継直後に起こったのです。それは放映直後のNHKが、「ごらんのように安保理がイラクの非を追認して終わりました」というポイントをはずした実にとんちんかんでミスリーディングな解説をしたからです。これはNHKがそうした状況を理解する能力がなかったからなのか、安保理での意外な展開をあらかじめ想定できずに、用意すべき原稿がなかったからだったでしょうが、公共放送としてじつにお粗末な恥ずかしい報道だったと思います。いやそればかりではありません。ついでにインターネットで新聞各社のホームページを調べたら、当初はNHKと大差ないピンとはずれなものばかりでした。それで、みなさまご存知のように、この安保理での議論がきっかけになって、翌2月15日は世界各地で計100万人にも上る恐らく史上最大の反戦デモがあったわけですが、さすがに自らの誤報に気づいたのか、次の日の各社のホームページは内容が変わっていました。しかし、このような実に自然に起こった反戦デモ(かつての左翼運動とは異質なごく自然な運動!)に対して、小泉首相や川口外相が放った放言、すなわち「このようなデモはイラクに誤ったシグナルを与える」という放言は決して忘れるべきではないでしょう。しかしよく考えてみますと、このような放言は、首相や外相が独自で判断して放たれたもののようには思えません。その背後にいる外務省やそのお抱えのブレーンたちの進言が反映されているはずです。 2月22,23日に千葉大学で、板垣先生や元国連大学副学長の武者小路先生などをお迎えして、イラク戦反対の緊急会議(イラク非戦会議)が催されたときにもそのことを指摘したのですが、その1ヵ月後、安保理決議に失敗したアメリカが単独で起こしたイラク戦争が始まった時点で、私のショックはさらに深まりました。それは天木さんが大問題にしたように、アラブ諸国の反応を全く顧慮しない小泉首相の「イラク戦を支持します」という明言と、それを称賛した首相を取り巻く評論家の他に、元来、外務省とから自由にものを言うことができるはずの大学人、特に東大教授の対イラク戦支持の発言によってです。それはショックを通り越して、あきれはてたといった方がよいでしょう。すでに3月の時点で公共哲学のメーリング・リストで二回ばかり批判し、現在でもインターネットに載っていますが、その実例をここで紹介しましょう。 3月30日付の読売新聞朝刊の一面と二面にかけて、元外交官で現在外交評論家の岡崎久彦氏の「勇気ある小泉発言」という記事が大々的に載りました。この記事のコピーが今皆様の手元にあると思いますが、これは、小泉首相のイラク戦支持を称賛するだけではなく、安保理決議なしのイラク攻撃は正当かというまっとうな議論をワイドショー的議論と切り捨てて、アラブ諸国との国益を無視し、一方的にブッシュ政権に協調(というより盲従)だけを国益と決め付け、さらにブッシュ政権に知日派が多いことを自慢し、今がアメリカの政権では期待できない日本外交のチャンス到来などと、したり顔で語った記事です。これを読んで私は、「公共性を欠いた外交の私物化」のお手本として永久保存版だとMLで批判したのですが、その時、非常に気になったのは、岡崎氏が自分の正しさを裏付ける決定的発言として、二人の東京大学の政治学者の名を出したことです。この二人は、駒場ではなく、本郷キャンパスでかなり重要な地位を担っている方々であり、私自身別に親しいわけでも、また私憤をもっている方々でもありません。また、読売新聞だけではなく、最近は、朝日とか毎日新聞に顔を出す方なので、少なくとも、スコット・リッター氏並の感覚はお持ちだろうと今にして思えば幻想を思っていたのですが、その後、皆様もお手元にあるような彼らが2003年3月5日に開かれた某研究所主催の「日米関係はどう変わるか」というタイトルの公開セミナーでの発言を読んでみると、実は全くそうでないことが判明しました。なお、実名を挙げるのはいくら同じ学部に属していないとはいえ、同じ大学に属しているものとして心苦しいので、名前のところは消してあります。それで毎日や朝日によくでてくる一人の東大教授は、こう述べています。00ページをご覧下さい。「――武力介入をしていくために国連の安保理決議が必要かどうかに関しては、イラクに対して国際社会の総意を示すのが望ましいが、不可欠とは思えない。国連安保理が新たな決議案を承認しないがために武力行使を中止したと仮定した場合でさえ、大量破壊兵器がテロリストグループに渡る危険性を削減する手段として、武力行使は査察の継続よりも有効だということができる。安保理の一部常任理事国が、アメリカの武力行使に拒否権を発動するのは、現在の国際秩序の維持に反対することを意味する。最後に、米国の武力介入に対し、日本はそれを支持すべきかどうかに関して、私は支持すべきだと信じる。早期の武力行使は査察継続より効果的だという議論から、日本は早期の武力行使を支持すべきだろう。――要約すると、国際社会は早期の武力行使をすべきかという質問に関する私の答えはおそらく(英語ではきっぱりと)イエス。新国連安保理決議は必要かどうかには、望ましいが不可欠ではない。武力行使を日本は支持すべきかどうかにはイエスである。」これは、リッター氏の発言とあまりにも好対照をなす発言で、今から思えばその影響力の大きさと相まって、彼の政治学者としての判断力のでたらめさが糾弾されなければなりません。この教授は、実は「ワード・ポリティックス」という本で、なんと吉野作造賞をもらっているのですが、こうしたご自身の言葉に対する責任を是非とってもらいたいと思います。 またもう一人の教授は、北朝鮮問題を引き合いに出し、「米国は大変よい世界の警察官として今まで機能してきたし、アメリカ以外にその警察官の役割を負える国がない。人々を説得する一番の方法は、アメリカの支持が北朝鮮問題について必要であれば、イラク情勢ではアメリカを支持しなければならない、ということである。―――日本のリーダーや政治家に期待するのは勇気を持って率直にアメリカを支持すべきであり、戦後の世界秩序構築のために日米同盟が重要なのだと国民に向かって語りかけるべきだと思う。それが、われわれが対イラク戦争で米国を支持する理由である。」と断言しています。そして、このような自分達の意見が朝日新聞に載るのは自分たちが変わったのでからではなく、朝日新聞が変わったからであるという事を誇らしげに語っています。なんとも、うぬぼれに満ちた国民を愚弄した発言ではありませんか。北朝鮮の人権弾圧に関しては、私は過去の左翼知識人の言動も含めて徹底的に糾弾すべきだと思いますが、その脅威を徒にあおり、アメリカにたてつくのはこわいからアメリカの不当なイラク戦まで支持せよというのは全くの論理のすり替えであり、おそらく天木さんが読んでもあきれると思われます。しかしこれが影響力の大きい東大教授の発言で、外務省のお粗末な外交の後押しをしたことを思えば、ことは深刻です。私は東大法学部のことをとやかく言いたくはありませんが、明らかにこの教授の発言には、鼻持ちならないエリート史観を感ぜずに入られません。実際この方は、『エリート教育は必要か。――戦後教育のタブーに迫る』という本を読売新聞社から出しておられますが、このような意味でのエリートなら要らないとはっきり申し上げたいと思います。 さて、この三人の方々の外交論で露呈した欠陥をここではっきりさせておく必要があるでしょう。その欠陥とは、第一に、外交の主体は自分たちを含めたナショナル・エリートが行なうものであり、国民の公共性による正当化など軽視していいという歪んだエリート主義です。次に、国際法や国連よりも日米同盟が重要だから、どういう理不尽な行動をとろうともアメリカにたてつくなという「長いものには巻かれろ」の恩顧主義です。しかしこの見解は、8月に私たちが公表した非戦声明で触れたように、日米安全保障条約が国連憲章の遵守を日本政府に義務づけていることを忘れたものです。また、この方々には、日本が被爆国であり、そのことを踏まえて発言するという視点が全く欠けています。そういう意味で、この方々はリッターの言う愛国主義者ではありません。学者としての特権を生かして、利害を超えた普遍的な理念を追求する姿勢が全く見られないのです。外務省との距離感を保って、平和などの普遍的な理念を考えることを全く放棄しているこの方々は、残念ながら御用学者と呼ばざるを得ません。そして最後に恐らく、この方々にとって最も致命的なのは、イラク戦が現在のような悲惨な帰結招くという結果に対するリアリティの感覚が全く欠けていることです。3月の時点で、私たち公共哲学ネットワークが出した声明の危惧が現在恐ろしいほどあたっているのに比べ、この方々はなんと能天気なことでしょう。特に二人の先生方は、政治学者としての資質を疑われてもしようがないと思います。リアリストが強調してやまない結果責任を是非自らとってもらいたいと思う次第です。 それと時間がもうあまりないので、簡単に済ませますが、この10ヶ月の間の読売新聞編集部の社説には、あきれ返りました。岡崎氏の論を堂々と一面に載せるくらいですから、内容は推して知るべしですが、「米英の判断は正しかった」と言い張った(現在でも言い張る)責任は追及されて然るべきです。 では、外交をこのような歪んだエリート主義者たちやその意見を載せ続ける大新聞に任せておけないとなればどうすればいいでしょうか。これは第二部のテーマですが、少なくとも、理論的にも実践的にも外交の公共哲学なるものを発展させなければならないことだけは確かです。それは、外交がグローバルなレベルでの民の福祉のためにあるという基本理念に立脚し、アマルティア・センなどが提唱している人間の安全保障の理念とも合致する哲学だと思います。また、NPOの方々にがんばって頂き、このような機会をできるだけ多く設けて、一般の人々との対話を促進するパブリック・インテレクチャアル(公共的知識人)の力もエンパワーしなければなりません。前途は多難ですが、大学人の責任を痛感する次第です。なお、これは右とか左とかいうイデオロギーの問題ではありません。大学人の質の問題です。以上簡単ではありますが、天木さんのお話を補完すべく、お話をさせて頂きました。
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