公共哲学宣言
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公共哲学宣言
今日の社会は、公共性に関する新たなビジョンとそれを論理化する学問を必要としている。ところが、哲学を含めた諸学問は、専門分化して高度に発達し た反面、専門家にしか享受されない「学問のための学問」に堕し、社会的意義を失っているように思われる。このような反省から出発し、私たちは、「公共哲 学」を中心概念として、社会的に有意義な学問を再生させたいと思う。以下は、その運動のための宣言である。
1 公共性の概念―――活私開公・トランスナショナリティ・公共世界
まず、「公共哲学」でいう「公共」の新たな意味づけを行いたい。今日、一般社会でも学芸においても、私的な利害関心の追求のみに閉じこもりがちな 「私事化(privatisation)」の傾向が見受けられる。しかし、学問と社会を再生させるためには、個々人の「私的世界」を尊重してこれを活かし ながら、さらに人々の間に共通する公共的関心や公共的利益へと意識を開くような考え方――いわば「活私開公」(金泰昌)――が採られなければならない。つ まり、今日の「私事化」現象に対抗するために、いきなり「公」を復権させるのではなく、「私」を活性化させる仕方で、「共(我々)」へと向かい、「公」へ と媒介することが求められるのである[i]。
日本では、従来、伝統的な「おほやけ」の観念に影響され、「公=国家=官」とみなす国家主義的公観念が強力であった。「公共」も、国家や官僚制に よって独占されていた。しかし、今求められる「公共」は、国家的な「公」(governmental, official)に回収されてしまうものではなく、「公衆(the public)」ないし「公共的市民(public citizen、公共民)」が「共」に参加するものとしての「公」である。したがって、私たちが規範的な意味で「公共」という概念を用いるときには、国家 的な「公」観念と区別し、公共的市民という意味を内包するものとしてそれを用いることにする。
私たちは、従来の「滅私奉公」とは異なって、「私性(privacy)」の価値も十分尊重する。そのうえで私たちは、人間が原子論的な孤立状態ない し利己主義に陥ってしまう危険を問題視し、自己・個体を生かすための公共性の蘇生をめざす。その意味で、「活私開公」は「活自(己)開公」ないし「活個開 公」とも呼ばれ得るし、自己論も公共哲学の重要な分野となる。人々それぞれの具体的な生活領域の次元において、「公共性」の蘇生を求めるというのが、私た ちの共有する根本的理念である。
ところで、現代社会においては、脱国家化の進行のもと、「国境を越えた公共性」やNPO・NGOなど様々な「中間団体ないし公共民組織によって担わ れる公共性」の実現が進行中である。これらは、「生活世界」に立脚しつつも「超国家的(トランス・ナショナル)公共性」をもつもの、すなわち「地球的・地 域的(地球域的)公共性/グローカルglocalな公共性」と呼ぶことが出来よう。こうした多様な公共性の実現とともに、「国家的公共性」は、いわば「多 層的・多元的公共性」のうちの1つ(one of them)となって相対化されなければならない。
さらに、「国家」のみならずおよそあらゆる権力は、「公共」の名目を掲げた恣意的な「私的」利益の正当化を、様々な他者に対して図る危険がある。 「公共性」の実体化には、それを「私事化」する濫用・誤用の危険が付きまとうのである。そこで、本来の公共性の理念に基づきながら、このような「権力の私 事化=私的権力」を批判し、公共性の回復と実現を図ることが必要になる。このような不断の知的・実践的努力によってこそ、(公的権力を含め)「公共世界」 は堕落を免れ、より高い水準においてその理念と正しさを実現することができよう。
「公共世界」は、人々が「共に」ある時空間全てについて存在する。政治はもとより経済・社会・環境など多様な領域において公共空間ないし公共圏があ る。また、過去の存在者や人々の歴史の蓄積・記憶においても、将来に来るべきものへの配慮・想定においても、それは存在する(公共的時空間)。このような 総体としての世界において上述のような形で公共性の実現を図ることこそ、私たちの目指すところである。
2 「ポスト専門化」時代における公共哲学の理念
「哲学」というと、現在では、他者を排する閉じた思弁や難解な過去の哲学の訓古注釈学を想起することが多い。しかし、私たちがここで指している「公共哲学」は、決してそのようなものではない。
元来、「哲学(philosophy)」とは、ギリシャ・ローマ語では、「叡智・智恵(sophia)」への「愛(philo)」であり、「愛智 学」を意味していた。この原義に遡れば、「哲学」は、「智恵」の全てを愛し希求する学問であるがゆえに、従来言われてきた「哲学」のみならず、倫理学・政 治学・経済学・社会学などの人文・社会科学の全て、さらには自然科学も含めて、およそ学問の全てと関連する性質のものである。
また「学問」という概念も、元来、東アジア文化においては、種々の知的・実践的な「道」を、他から「学び」、自ら「問い」・弁え、そのことにより 「徳」を育んでいく営みであった。この意味では、「学問」は、自己と他者や世界との具体的な対話を介して、知性と身体を伴った全体性としての人間の中から 生まれるべきものである。
したがって、西洋の伝統においても東洋の伝統においても、専門分化の結果として蛸壺(タコツボ)化(丸山眞男)した今日の学問の姿は、本来の「哲 学」の理念からも、本来の「学問」の理念からも乖離していると言うことができよう。もちろん、各専門分野の知見が重要であることは論を待たないし、諸学問 が専門(ディシプリン)化される以前の「プレ専門化」の時代にもはや戻ることはできない。したがって、いわば専門化の意義を継承しつつも、その弊害を乗り 越えて、「ポスト専門化」の段階の学問を建設することが、公共哲学の課題となる[ii]。それは、過度に専門化された「学科哲学」ないし「講壇哲学」の狭 溢性を打破し、「実践的な哲学」の再生を目指すものである。
このような「哲学」の再生は、単に「哲学」という一分野を本来の姿に甦らせるだけではなく、社会や人間に関わる「学問」の総体について、その社会的 意義を甦らせることに繋がるであろう。例えば、アリストテレスの実践学の理念にも現れているように、また社会学者のR・ベラ-が主張しているように [iii]、本来の社会理論は、決して――今日の実証科学が一面的に強調する――抽象的ないし客観的な理論学だけではなく、倫理・政治といった人間の具体 的実践を扱う実践学をも含むものであり、社会における人間の営為の総体を課題とするものだった。
このような伝統は、西洋における「道徳哲学(moral philosophy)」という学問理念にも現れていたし、イスラム・インド・中国などの他の諸文明圏においても様々な形で現れていた。日本を含む東アジ アにおいても、たとえば儒学においては、倫理的な政治哲学・実践哲学が主柱をなしており、――伝統思想としての限界は別にして――理念的・倫理的な色彩を 持つ「公」の観念が重要な役割を果たしていた。また、そもそも地球上の様々な小集団や無名の人々においても、その生活文化・宗教やライフサイクル・慣行・ 学芸・仕事のなかで、人間や自然をめぐる実践的な智恵も見出され伝えられて来た。それらは必ずしも体系化されていなくとも、私たちに反省を迫り、将来への 示唆を与えるものが少なくない。こうした「人間の知」の系譜を引き継ぎつつ、社会的に有意義な学問を、新世紀の地平において甦らせることこそが、新しい世 紀における「ポスト・専門化」時代の公共哲学が目指すところである。
3 具体的概念規定
「公共哲学」という概念は、――ウォルター・リップマンの『公共哲学(The Public Philosophy)』(1955年)以来――特にアメリカの政治哲学で用いられている。私たちの試みは、それを参考にしながら、独自に発展させようと するものでもある。上述の点を合わせて述べれば、公共哲学とは、様々な意味における「公共性」(例えば、公開性・公然性や公益・公共善)の実現を目指すと ころの、智恵を希求する学問(哲学=愛智の学)の総称である、ということができよう。
このような公共性は、社会一般における私事化(社会内私事化)に抗するものとして、社会自体における実現はもとより、学問の再生にとっても、重要で ある。上述のように、学問が社会的に意味を喪失している状況は、社会に対する学問の私事化(学の対社会的私事化)とみなすことができるし、また、学者で あっても専門家以外には内容がわからないという状況は、学者共同体内部における専門的私事化(学問内私事化)とみなすことができるであろう。
そこで、以上三つの私事化に対抗して公共性の回復を目指す学問という意味において、公共哲学は、具体的に、次のような特色によって暫定的に定義することができる。
① 公開性・公益性(社会内公共性)…社会内私事化に抗して、政治・経済・社会における新しい公共性の実現を目的とする(社会・政治の公共化)。この際、戦前 以来の「国家=官=公」と一元的にみなす公観念を脱却し、公衆に立脚した新しい公共観念、「脱国家的(トランス・ナショナル)公共性」ないし「地球域的 (グローカル)公共性」を提示する。
② 実践性(対社会的公共性)…学問の対社会的私事化に抗して、学問の社会的公共性の実現を目指す。学問智を一般社会に向けて解放し、公衆に理解可能な形で提示すると共に、公共政策も含め、現実の問題に対する解決の思想的・政策的指針を提示する(学問の公共化)。
③ 包括性(学問内公共性)…過度の専門化・蛸壺化による学問内私事化に抗して、学問内部に於ける学際的・包括的[iv]な公共性の回復を目指す。専門分化の 弊害である、諸分野の閉鎖性を打破して、現実の問題解決に役立つ総合的智恵ないし学問的智恵(学智)の形成を目指す。
公共哲学には、公衆において現実に存在する、生きた思想の歴史的・経験的・実証的な研究を中心にする場面もある。これを「描写的(経験的)公共哲学 (descriptive or empirical public philosophy)」と呼ぶことができる。他方、公共性の実現という、あるべき理想をも提示するのが、「規範的公共哲学(normative public philosophy)」である。この双方の要素が重要であり、双方の接近法(アプローチ)が追求されるべきである。規範性なき描写的公共哲学は、目的や 方向を欠き、海図を失った漂流船のようなものであり、経験的考察なき規範的公共哲学は、周囲の状況に盲目で、計測器の壊れた故障船のようなものである。
それゆえ、公共哲学研究においては、経験的・実証的研究も、究極的には「公共性」という理念に嚮導されているという意味において「理想主義的」であ り、規範的研究も、経験的研究に支えられるという意味において「現実主義的」である。この点で、公共哲学は「理想主義的現実主義(アイデアリスティクなリ アリズム)の哲学」[v]に立脚しているということができよう。
以上をまとめれば、「公共哲学」とは、「公共性(公開性・公益性)・実践性・包括性」を備えた「理想主義的現実主義の学問」の総体であり、いわば「理想主義的現実主義の実践的・包括的公共哲学」と特徴付けることができる。
4 目的――学問革命による公共世界の再建
このように、「公共哲学」とは、決して、抽象的で難解な従来の哲学の一分野ではない。むしろ、今日の講壇哲学がしばしば現実とは無関係な抽象的思索 のみに流れがちであるのに対して、公共哲学は、そのような哲学の性格を打破し、明確で現実にも有意義な学問の在り方を回復しようとする学的営為である。そ の目的は、「公共的」な「学知」ないし「学智」の探究にほかならない。
それゆえ、私たちの試みは、学問本来の生命力を回復するための、社会理論の総体的な知的革新運動ということができるであろう。それは、もとより、専 門分化した学問の硬直性を打破する学際的な試みであるが、たんに「公共哲学」という一分野を既存の学問に追加するものではない。それでは、すでに限界が露 になった今日の学問に屋上屋を架すことに過ぎない。私たちの目指すのは、むしろ、「公共哲学」という学問的理念を中心に据えることによって、既存の学問の 総体を抜本的に脱構築し、より高い水準において、再構築することにある。そして、このような学問的革命を通じて、現在「私事化」の潮流に侵食され、空洞化 されている公共性の活性化を促し、ひいては、学界のみならず、「生活世界」に立脚した人々の「公共世界」の実践的な再建に寄与することこそ、私たちの念願 するところである[vi]。
2001年12月
山脇直司
小林正弥
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[i] 「活私開公」を始め、これらの観念については、佐々木毅・金泰昌編『公共哲学』全10巻(東京大学出版会、2001-2002年)参照。
[ii] 「専門化」・「ポスト専門化」などの概念や、これらの学問論の詳細については、 山脇直司「パブリック・フィロソフィの再構想――学問論的展望のために」(山脇直司・大沢真理・大森彌・松原隆一郎編『現代日本のパブリック・フィロソ フィ』(新世社、1998年)、1-20頁、同『新社会哲学宣言』(創文社、1999年)参照。
[iii] ロバート・N・ベラー『心の習慣――アメリカ個人主義のゆくえ』(みすず書房、1991年)参照。
[iv]「包括的」は、山脇直司『包括的社会哲学』(東京大学出版会、1993年)による。
[v]日本政治学では、南原繁以来「理想主義的現実主義」の伝統がある。「アイデアリスティックなリアリズム」という観念については、山脇、前掲『新社会哲学宣言』、103頁参照。
[ⅵ]本宣言については、原案の改善作業に協力してくれた黒住真氏をはじめ、公共哲学研究会参加者の助言や意見に負うところが大きい。感謝の意を表 したい。また、これは、いわば「公共哲学宣言 第1版(バージョン1.0)」とでも言うべきものであり、今後、さらに多くの方々の意見を踏まえて、必要が あれば適宜改訂を行なっていくことにしたい。