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小林正弥(千葉大学)
一、序 戦後日本政治理論の盲点――大衆的自我主義と新国家主義
戦後日本政治理論にとって、戦前のような(天皇制的)国家主義は、克服すべき最大の問題であり、「国家=公=官」という三位一体のトリアーデは、それ以来一貫して批判の対象であった。しかしながら、このような国家主義的公観念の批判に精力を注ぐ反面、積極的に追求されるべき公共性の概念について理論的彫琢が軽視されてきた事は否めない。
この結果、優れた思想家ないし学者の提唱した「倫理的個人主義」が、大衆では私益追求・欲望追求を正当化する「自我主義」として受容される事となった。この「大衆的自我主義」は、戦後の経済発展を促す一因となったものの、同時に、私企業の私益追求を至上の目的と見倣す「会社集団主義的自我主義」、政官財に於ける親分―子分関係の「(政治的)自我主義」、「公」たるべき官僚制に於ける「(新)家産官僚制的自我主義」を生み出すに至った。
近年、このような(政官財の)腐敗が顕在化し、「国家=公=官」が激しく批判されて、分権化や「民」への移行(民営化、規制緩和)が正当にも主張されている。しかしながら、その一方で、自我主義を批判しつつ、「国家=公」の復権を主張する(危険な)新国家主義ないし新国粋主義も現れている。実際には、自我主義と新国家主義とは、「国家=公(個人=私)」という国家主義的公(私)観念を前提とした同位対立にしか過ぎない。そこで、このような公(私)観念から脱却し、新しい公共性観念を政治哲学ないし新公共哲学のかたちで提起する事により、戦後日本政治理論の盲点を埋めると共に、この不毛な二項対立から脱却する方途を呈示することにしたい。
二、公共性理論-条件・公共場・公協性/公開性
自我主義と新国家主義との二項対立は、政治哲学に於けるととの対立に対応する。さらに、哲学的には、この二つの立場は、近代的な(デカルト-ニュートン的世界観に於ける)原子論と古典的な(ギリシャ哲学やヘーゲルなど)全体論との対立に対応する。この二つの立場は、究極的には「分多論(分多性公理)」と「全一論(全一性公理)」と呼ぶ事が出来るが、現実の世界にはこの双方の側面が存在するから、いずれかの単一原理で説明するのは無理である。そこで、一元論的説明ではなく、この双方の原理から説明する二元論的構成ないし(総合論的)な三元論的構成が必要であり、公共性論に於いても、二元論ないし三元論的な(総合論的)公共性論を提起したい。
近年の公共性論に於いて重要なハンナ・アーレントは、「人間の条件」として、生命、生誕性(natality)、必死性(mortality)、世界性 (worldliness)、複数性(plurality)、地球性を挙げているが、本稿では、これを生命性(生誕性・必死性はここに含まれる)、世界性(地球はここに含まれる)、分多性(複数性はここに含まれる)の三要素に集約すると共に、分多性の対極として(ギリシアのポリスには存在していながら、アーレントが軽視した)全一性を加え、この四要素を「人間の条件」と考える。これに応じて、アーレントの言う「活動力」は、(生命性に対応する)労働、(世界性に対応する)仕事の他に、(分多性に対応する)単独活動(独行)及び(全一性に対応する)共同活動(協同、協働)という四種類に分ける事が出来、アーレントの言う(自由な言論を中軸とする)活動は、実は、独行と協同との架橋となるような媒介概念である。
次に、「人間の条件」に対応する「政治の条件」として、(生命性に対応する)人間主体、(世界性に対応する)場、(分多性に対応する)個体性、(全一性に対応する)共同性が存在する。即ち、政治とは、ある場(政治場)に於いて、そこに存在する人間の間での個体性と共同性が入り混じり、相互作用する現象であり、個体性が共同性を圧倒すれば対立・紛争が生じ、逆に共同性が優勢になれば、合意・調和・平和へと至る。
さらに、「公共性の条件」としては、以上の四条件に加えて、分多的な個体性が全一的な共同性へと至る為の「交流(様々なコミュニケーション)」(の回路)ないし「統合」(の機制)が存在する。この時、その政治場は「公共場」となり、そこにに成立する共同的ないし統合的な全体性が「公共性」である。分多的・原子論的な個体間の対立や相違から生じる問題が、公共場に於ける交流・統合機制による共感・同感・交歓・交響・理解・納得等を通じて、全体に共有され、全体にとって望ましい解決へと向かう時、そこに公共性が実現する事になる。つまり、公共性とは、分多性を有する「人間ないし政治の条件」に於いて、全一性を実現しようとするところに成立する、な全体的共通性なのである。それゆえ、公共性は、全体性と密接に関わる概念であり、「公益=公共的利益」は共同体全体にとっての利益を、また「公共善」は、共同体全体にとっての善を意味する。
しかしながら、通常の「公共性」には、この他に公開性・公然性という意味も含まれている。英仏語のpublicには、ここでいう公共・公開の双方の意味が存在するが、語源のラテン語publicusは「人民全体(に属する、関わる)」を含意するから、全体論的な公共性の意味を中核としている。これに対し、ドイツ語のOffentlichkeitの場合は、逆に公開性・公然性・開放性が原義である。このように、公共性と公開性・公然性は現実には深く関連し、しばしば区別されずに用いられているが、分析上は区別した方がよい。公共性の「共」は、「万人=人民全体」という全一論的な共同性の含意を帯びているのに対し、公開性・公然性は、公開されたり公然となるに際して(異質)の他者を前提としていると考えられるから、より分多論的・原子論的な場面を持つていると考えられよう。従って、この二つの差異を明確にする必要がある場合には、「全一論的公共性=公協性・公響性」「分多論的公共性=公開性・公然性」と呼び分ける事が出来よう。広義の公共性は、しばしば(対内的ないし対外的な)公開性・公然性をその要件とするが、狭義の公共性にとってはそれだけでは十分でなく、公協性(公の協同性)ないし公響性(公の公響性)の成立が必要である。言い換えれば、公共性には分多論的な公開性・公然性を踏まえつつ、それを全一論的な公協性(・公響性)へと止揚するところに成立するな概念なのである。
以上の区別に従って、公共場にも、公開場(公然場)と公協場(公響場)という二つの要素を区別し得る。公開場は、開示される内容を集団内部(対内的公開性)ないし外部(対外的公開性)に対して公開する機能を持つが、その内容に関する動向については中立的であり、場合によっては場の解体・戦争へと至るような破壊的な「闘争場」へと陥る危険性も存在する。これに対し、公協場・公響場は、対立する意見の存在が共有されると共に、知性の協同や感性の交響・共鳴により、(高次の統合や総合に止揚される)建設的な方向性を促す対理法的機能をもち、その意味に於いて、公共場は「対理法的場」なのである。例えば、ギリシアのアゴラや今日の議会のような公論の場は、少なくとも、その理念に於いては、意見対立ないし呈示を経つつ一人ひとりの意見が深化されて、(一定程度の)共同の意見が形成される方向に機能する時、即ち、対立を経つつ調和・統合に至る対理法的な場である時、公協場・公響場であり、そこに成立する全一性ないし共同性が狭義の公共性=公協性である。逆に、その討論が何ら上記のような全一的方向性をもたず、意見対立が破壊的な闘争へと帰結するに過ぎないならば、それは公開討論の場、即ち公開場であっても、公協場、即ち狭義の公共場ではない。公開場は、公開の競争・闘争場であって、必ずしも調和への方向性を持たない。
ハーバマスの言う「市民的公共性(Burgerlich Offentlichkeit)」(批判的公共性)は、主として公開性に関係するのに対し、公協性の方は「公共的公共性」(ないし人民的公共性)と呼ぶ事が出来るであろう。後者の公共性=公協性は、公響的過程を通じて生成する「(generative)公共性」である。
三、多次元的公共性理論――三次元理念空間と四次元時空間
公共場に於ける公共性(の実現)には、三つの形態ないし要素が存在する。第一は、対等者間の交流・交響による平等な公共性で、「水平的公共性」(=公平性)と呼ぶ事が出来る。第二は、不平等ないし不均等な上下者間に於ける(権力・権威による統合の結果生じる)「垂直的公共性」(=公権性)である。第三は、超越的な原理や規範・倫理に基づく「超越的公共性」(=公正性、公義性)である。例えば、アーレントやハーバマスが主張する(西洋的)公共性は、水平的公共性であり、日本の国家主義的公観念の中核をなすのは、垂直的公共性、中国の「天」観念に支えられた公共性は、超越的公共性である。従って、多様な公共性は、この三次元性を備えた「多次元的(三次元的)公共性」として分析する事が出来る。
アーレントやハーバマスの公共性論の大きな貢献は、――「公的領域(public sphere)」(アーレント)や「公共圏(Offentlichkeit)」(ハーバマス)のように――公共性に領域ないし空間概念を導入した事にある。本稿に於ける公共場は、これをさらに時間的次元にも拡大し、四次元時空間として定義される。つまり、「空間的公共性」のみならず、時間ないし世代を超えた、「時間的(ないし超時間的)公共性」も存在する。(環境問題などに於いて重要な)将来世代の利益への配慮は、時間的公共性の代表的な例であり、これを「世代間(超世代的)公共性」と呼ぼう。この場合、現存する人間主体は、現在世代のみであるが、時間的な公共場に於いては過去世代や将来世代が擬似的ないし仮想現実的な主体として想定され、世代間の分多的・個体的な利益対立に対し、全一的・共同的な超世代的利益の実現が図られる事になる。
かくして、四次元時空間の公共場に於いて(四次元的)主体間の分多的な個体性を全一的な共同性へと統合するのが公共性であり、公共性は水平・垂直・超越という三次元の精神空間=理念空間に於いて分析する事が出来るから、公共性論は、公共性を合計七次元空間(四次元現象時空間及び三次元理念空間)に於いて説明する事になる。アーレントやハーバマスの公共性論は、主として「四次元的公共性理論」であり、本稿の多次元的公共性論は、より包括的な「七次元的公共性理論」と言う事が出来るであろう。
四、公共体の概念――結成による共同体と公共国
公共場(公共的時空間)に何らかの公共性が実現しても、一般的にはそれが永続する保証はなく、また公共場の範域も流動的だから、これを「一時的・流動的公共場」と呼ぶ。例えば、「公的な言論の場=公開場」に於いて一時的に(意見対立を建設的な結論へと導く)「公共場」が成立したにしても、それがやがて破壊的な言論の闘争場へと変化しないという保証はない。そこで、紛争や戦争への危険性を内包するこのような事態を回避する為に、対話の・倫理・精神や決定方法(多数決、裁定等)を制度化し、公共場を持続させようという試みが現れる。このような試みによって――少なくともその理念に於いては――公共性が何らかの形で継続的に追求・実現されるようになった公共場を「持続的・固定的公共場」と呼ぶ。
さらに、このような持続的公共場が発展して、その場の構成員に一定の帰属意識が生まれ、構成員間に、公共性を形成する持続的集団という共同体意識が現れると、そこに「公共体」が生成する。これは、「自然的生成」であると同時に、構成員の合意による「作為的結成」でもあり、「自然的作為」による「生成=結成」ないし「結成(generative association)」と成る事が望ましい。この公共体の公共性形成に参与する構成員が「公共民」である。公共体という名称が適切なのは、ここに有機体的な全一性・全体性が(少なくとも理念として)存在するからである。
今日、「共和国」に言われている政治的共同体の、ラテン語の語源res publicaは「公共的なるもの、事」を表すから、‘res publica → republic’という語によって表示される政治的共同体一般は、むしろ「公共体」と訳されるべきであろう。公共体は、持続的公共場及び(その主体たる)公共民が存在すれば、いかなる形態でも成立させる事が出来るから、原理的に「国家」という形態の歴史的共同体に限定・拘束される必要はない。原始的な部族社会や古典期ギリシアのポリスや、さらに今日の自発的結社内部や(国家を超えた)国際的集団及び(時を超えた)超時間的共同体に於いても、公共体は成立し得る。特に、ギリシアのポリスを始め、都市的共同体に於いてリパブリックが当初発達した歴史に基づいて、公共性形成に参与する主体を、西洋では一般的にcitizenと呼び、日本ではしばしば「市民」と訳されているが、これも――歴史的経緯から離れて――原理的には「公共民」に等しい。
共同体(community)とは、多かれ少なかれ全一論的・全体論的共同性の存在する集団一般の事を指す(ものと定義する)。従って、公共体も共同体の一種であり、その部分集合である。しかしながら、共同体の中には全体論的要素のみが存在して原子論的要素が存在せず、閉鎖的・抑圧的な共同体も存在する。これは、「全体主義的共同体」であり、が批判される最大の理由は、このような共同体を正当化しかねない点にある。これに対し、公共体には、定義上、全体論的側面と同時に原子論的側面が存在し、それ故、開放的で自由である。即ち、公共体とは、共同体の中でも開放的で自由な「共同体」なのである。
公共性の内、全体論的な公協性の側面は、公共体が――共同体一般の場合と同様に――公共的=公協的理念を持つ事を可能にする。例えば、人間が美徳を身につけた公共世界=理想世界を実現する(美徳-公共主義)というような、完成主義的(perfectionist)
理念である。しかし、一方で、原子論的な公開性・開放性の側面は、公共体が――全体主義的共同体とは異なって――公共的=公開的・開放的性格を持つ事を意味する。従って、公共体は――少なくともその理念に於いては――自発的結社の一種と考える事が出来、自由加入・脱退及び外部との自由交流と公共性への自発的参与が存在するような、「自発的(自由)公共体」である。構成員たる公共民は、公共性の実現を求めて「公共生活(public life)」に参与し、(もし現状に満足出来ない時には)発言ないし反対の「声」をあげる事が出来るが、もしそれが有効に働かないと感じる時には、自由に離脱=「退出」する事が出来る(A・ハーシュマンの言う、退出exit・発言voice・忠誠loyalty)。
ただ、現実には、このような自由・自発的公共体を直ちに完全に実現する事が出来ない場合も多い。例えば、今日の国家は――後述の世界連邦も含め――国籍ないし公民権によって加入・脱退に制限を加えているから、直ちに純粋な自発的公共体へと移行する事は難しい。それでも、原理論的な自由を保障しつつ、全体論的な公共的理念を掲げて、可能な限り加入・脱退の自由を拡大しようとする事は可能であろう。そこで、公共体に「完全(純粋)自由・自発的公共体」の他に「限定的(不完全)自由・自発的公共体」という範疇を設ける事にしよう。すると、国家の中で、公共体の理念を可能な限り実現しようとする国家は、後者の類型に属する事になる。このような国家は――既存の「共和国」が主として王権の不在という消極的側面を意味するに過ぎないのに対し――積極的理念を内包する「公共国」と呼ぶ事が出来るであろう。前述のように、公共体の概念は、政治的共同体の基本的単位を「国家」から開放し、「国家」を相対化しつつ共同生活=公共生活の多様な展開を可能にするものであるが、国家もなお存続する限り、相対化された国家に、自由と両立し得る公共性の実現を図るという、「理想国家=理想公共国」実現の努力を妨げるものではないのである。
五、私的官と公的民――多層的・相対的・実質的公私概念
実際には、共同体ないし公共体は、重層的ないし並列的、多層的ないし多元的に存在する事が多い。この最小の単位が(通常は)家族と言われる親密圏=親密共同体であり、ここにも(夫婦等各人の)原子論的個人性と(一家としての)全体論的共同性の双方が存在するから、――「家=私」と見倣す公私二分観念に反して――本稿では、定義上、これも公共体の一種と考える事が出来よう。日本語の公は、語源的には「大(オホ)+家(ヤ)+場(ケ)」を表すから、通常の家族は「小」(コ・ヲ)+家(ヤ)+場(ケ)という事になるが、最小公共体=「家族公共体」と言う事は不可能ではないであろう。日本の家族制度に見られるように、家の観念は、しばしば空間的共同体であるのみならず、先祖や子孫も含む時間的共同体としても考えられる。つまり、家とは、四次元時空間に存在する基礎的共同体=公共体であり、その中には、家父長制・対等な夫婦・祖先崇拝等の、垂直的・水平的・超越的な三次元の理念的公共性を既に原型的に含んでいる。
しかし、個人ないし家族は、通常、より広域の共同体ないし公共体の中や下に、包み込まれて存在している。それ故、広域=上位の共同体=公共体と狭域=下位の共同体=公共体との関係が問題となり、公私の分割が生じる事になる。例えば、日本の公=国家に対し、私は家の領域に対応するし、古代ギリシャに於いても公=ポリスに対し私=であった。ただ、これらの「公私二分観念」に於いては、私的領域を個人ないし家族に限定し固定する事が多かったのに対し、多層的公共体という観念は、公私を多層的公共体の広狭・高低に於ける相対的概念と見倣す事を可能にし、ここに「多層的・相対的公私観念」が成立する。
この公私関係に於いて、公共性の対概念を「私個人(私独性)」と呼ぼう。これに相当する英語のプライベートの語源は、ラテン語のprivatus(公共生活からの退去)、さらに privare(奪った-過去形)だから、公共性が全体性に関連するのに対し、私個人は(本来は存在すると考えられる)その全体性の欠如を表す、と解釈しうる。それ故、ここから見ても、私個人は、(日本語の「私」のような)第一人称や家に限定される必然性は無く、より広い本来の公共性=全体性から見て欠如している状態も指す相対的概念と規定する事が可能である。
さらに、原子論的公共性=公開性の対概念となるのが、「全体論的私個性=私秘性(プライバシー privacy)」であり、これ自体は直ちに倫理的に悪いわけではない。共同体全体の中で原子論的な個人性の尊重を図るという観点からは、むしろ重要な守るべきものと考えられる。これに対し、全体論的公共性=公協性の対概念が、「原子論的私個性=私孤性・私我性」である。個人ないし共同体の私孤性・私我性が過度に突出すると、上位の共同体=公共体の公共性ないし公益の実現が阻害されるから、私孤性・私我性は、――上位の公共体の観点からは――問題視され、しばしば利己主義・自我主義的な悪と見倣される。
一定規模以上の公共場が公共体として制度化されると、――首長制以来――垂直的公共性=公権性が公権力として実体化して現れる事が多い。この公権力は、通常、政府機構という形を取り、ほぼいずれの言語に於いても(日・中・英等)政府(機構)の事を「公的」(パブリック public)と呼ぶようになる。同時に政府を支える官僚制を含め、この公権力は「官」と呼ばれ、「民」(民間)と対比される(官民分化)から、「官=公/民=私」という等式が成立する。これは、「形式的公私(官民)観念」と呼ぶ事が出来よう。
しかしながら、これは、公権力が常に垂直的公共性を担っているという想定に基づいており、その意味で「形式的公観念」に過ぎない。実際には、垂直的公共性の実体化とされている公権力に於いて、公共性は既に形骸化して「偽似的公共性」に転化してしまっている事が多い。この場合、政治権力=「公」は、実質的には私我的なのであり、「官=私」という「私(我)的官」となってしまっているのである。逆に、「民=私」という等式も「形式的私観念」に過ぎず、民間人や私企業やNGOの如き民間主体も、実質的には「真正公共性」を担っている場合が少なくない。このような時、「民」が実質的には公共的=公協的なのであり、「民=公」という「公(共)的民」となっている。以上のように、公私観念を形式的定義から解放し、本稿の如き「実質的公私(官民)観念」を採用すれば、「官=公/民=私」という固定的二分法は崩壊し、官にしても民にしても、公協的である場合も私我的である場合も存在する、という事になる。
かくして、観念に基づく哲学的な公私概念ないし公共性は、「官=公/民=私」という形式的公私概念を打破し、さらに公共体の概念は、「国家=公」という国家主義的公観念から離脱して、下は家族から上は世界・地球に至る、多層的・多元的公観念へと到達する事を可能にするのである。
六、新公共(体)主義の特徴――地球的・多層的・多元的・流動的・超世代的公共体
(アーレントや)ハーバマスの西洋的公共性論は、「分多性-原子性」を強調しており、「全一性-全体性」の要素を軽視している。これに対し、この双方の要素を含んでいる点で注目されるのが、の流れである。ポコックやスキナーらに代表される近年の西洋政治思想史研究は、公共性や公的政治参加を強調するが、ギリシア・ローマに端を発して、近代に於いて「フィレンツェ(マキャベリら)→清教徒革命期イギリス(ハリントンら)→アメリカ独立革命」と展開し(フランス革命にも大きな影響を与え)た事を明らかにした。本稿の公共性論は、この歴史的の一大系列を意識しつつ、特にルソー的社会契約論を哲学的に再構成したものである。
ただ、(republicanism)という用語は、反王制という近代的・国制的意味とあまりにも強く結合していて、公共性の重視・実現という含意がしばしば薄れがちなので、本稿ではres publica(公共のもの、公共に関する)というラテン語の原義に遡って「公共主義」ないし――‘リパブリカニズム=リパブリック(共和国)+イズム(主義)’と分解して ――「公共体主義」と表現する事にした。本稿では詳説し得ないが、時代的類型として、「古典的公共(体)主義」(ギリシア・ローマ)・「近代的公共(体)主義」(=)等が存在し、公共性の実現という目的を共にしながら、その具体的形態は多様であり、歴史的に変化していく。
そこで、本稿の理論的枠組に即して、21世紀の地球時代にふさわしい「新公共(体)主義」を構想すると、次のような特徴が考えられるであろう。
(1)逆説的ユートピア論……既存の(強制加入団体としての)国家を――弱者救済の為の一定程度の福祉等の機能は残すものの――基本的に「ユートピアの枠」(R・ノージック)として縮小再編しつつ、その内外に自発的公共体を創出し、以て原子論的な自由と全体論的な共同性との総合を実現する。
(2)ルソー的公共体……先述の「公共性の条件」の下で、公共場に於ける自発的公共体を――ルソー的社会契約論の原理に基づいて――結成する。
(3)公共民世界……従来の市民社会論が、あくまでも国家=公と個人=私とを媒介する中間団体としての自発的結社の役割に注目するのに対し、市民社会に於ける結社自体を、「公共民世界=諸公共体」と見る事になる。
(4)多層的・多元的共同体……公共体が国家以外にも多層的・多元的に存在する事になり、かつての多元的国家論が「多層的・多元的公共体論」として発展する事になる。この多層性から公私連鎖((7)を参照)が生じ、また多元性ないし並列性から、諸公共体によるネットワーク的な連合・連携(アソシエーション)が生じる。
(5)流動的公共体……メルッチらの「遊牧民」論が示しているように、社会構造やコミュニケーションの変化により、ネットワーク化が進み、公共体もまた、固定的・静態的公共体から流動的・動態的なネットワーク的公共体へと変化する傾向が現れ、公共(性の)場の動態的顕現形態となる。公共体が物象化・形骸化して擬似的公共体へと転落する危険性に対し、公共体の流動化は、流動的公共場と公共体との相互移行を容易にし、真正公共性を不断に確保する事を可能にする。
(6)地球的公共体……地球化・世界化の進展に伴って、公共体も空間的に拡大し、国民国家を超えた地球的共同体が発展してゆく。これは、まだ生成途上の「想像の共同体」(B・アンダーソン)に過ぎないが、地球公共民意識の成長が地球(連邦)的公共体への第一歩になろう(地球公共体宣言!)。
(7)多層的公-私連鎖……最大の地球的公共体から従来の国民国家を経て地方的共同体や最小の家族公共体ないし個人に至る、多層的公私連鎖が現れる。従来「公」と見倣された国家も、地球公共体から見れば「私」となり、国益も私益となる。
(8)最小・基礎的公共体……従来は私的領域と見倣された家族ないし親密圏も、個人から見れば、共同性・公共性の存在する、最小の基礎的公共体と考えられる。従って、公共性の実現は、まず家族公共体から出発する事になり、「修身斉家治国平天下」という儒教的発想が再生する。
(9)公共民経済(学)……同じく従来は私的領域とされていた市場経済の公共化が目指される。「国家=公」という国家主義的公観念に縛られていた社会主義・共産主義ないし(福祉国家に於ける新恩顧主義的な政治を帰結した)社会民主主義とは逆に、市場経済内部に於ける民間企業等経済主体の経済行為自体が ――「環境に優しい商品」のように――公共性に寄与するようになり、(民間人でありつつ、同時に公共的な)「公共民経済人」(企業家等)による「公共民経済(学)」が実現していく。
(10)超世代的公共体……公共場は時空間的概念だから、公共体構成員には過去世代・将来世代も含めて考える事が出来る。このような「超世代的(世代間的)公共性」に於いては、同胞公共民たる将来世代の利益も含めた、超世代的公益を考える事が必要であり、「時間的公共性/公益」の概念が必要である。
(11)世代公共体……従来、公共性の概念は主として空間的次元に即して考えられてきたのに対し、近年エリクソン心理学等から発展してきた「世代(継承性 generativity)」の概念は、むしろ時間的次元に重点を置いており、「時間的公共性」への貢献を世代と考える事が出来よう。「世代共同体=公共体」は、超世代的公共性を実現する、超世代的公共体の一時点に於ける表現である。
(12)七次元的公共性……以上のような四次元時空間に於ける諸公共体に於いて、垂直的公共性(=公権性)・水平的公共性(=公平性)・超越的公共性(=公正性・公義性)の三次元を統合的に実現する「公・共・善性」が理想となる。
(13)多層的・多元的・流動的アイデンティティー……(4)・(5)点の反映として、個々人のアイデンティティーも、多層的・多元的・流動的になる。
(14)美徳-公共体主義……(1)・(2)点の結果、各自発的公共体内部には、自由に完成主義的理念を実効的な公共的理念として掲げる事が可能になるから、「公共心(public mind)」をはじめ、美徳の会得による公共性の実現を目指す美徳-公共体主義が十全に展開し得る事になる。
(15)公共国……国家の場合、既に存在している為、純粋自発的公共体とするのは難しいが、限定的自発的公共体としての公共国と成るように努めるべきであろう。これは、――国民に多様な理念が存する限り――「ユートピアの枠」であるが故に、特定の理念を国民に強制する完成主義的国家ではあり得ないが、各種共同体の自由競争的成長・発展を支持・促進する政策を行う事は出来る。総じて、公共国に於いては、国民は自らの価値観に従って生きる自由(消極的自由-寛容)が保障され、自由に各種公共体に参加する事が出来る。(積極的自由)が、公共国としての(内容を厳密に特定されない)非強制的な美徳――公共主義一般を(プログラム規定のような)大理念として掲げる事は――国民の自由を阻害しない限り――可能であり、議会などの政治的な公共場に於いては「公開性」を制度化しつつ、「公共性・公響性」への精神的・倫理的方向性を実現する事が求められる。そして、特に、公共的政策の必要が存在する限り、それを形成・施行する政治家・公務員は――現行憲法にすら定められている通り、――公益実現の為に公僕として献身する事が必要であり、――国民一般は別にして――少数の公僕は、美徳-公共心を体現しなければならない。従来の権威主義的な官僚(制)は、「公的奉仕員(civil servant)=人倫的公僕(制)」へと転化しなければならないのである。
七、結語 個的・超個的二重精神革命
――総合的・対話的・実践的公共哲学の必要性
本稿では、戦後啓蒙、殊に日本政治理論の盲点であった公共性観念の弱体性を補うべく、公共性及び新公共(体)主義の概要を示した。それは、原子論的なと全体論的なとの止揚を目指すものであるが故に、新国家主義的なとは異なって、あくまでも戦後啓蒙の強調した倫理的個人性の確立を重視しつつ、その上でさらに――あるいは、それと同時並行的に――超個的な共同性・全体性としての公共性の実現を提唱するものである。従って、このような公共性を実現する為には、「個的・超個的二重精神革命=精神革命」が必要である。このような精神革命が遂行されてこそ初めて、新公共体主義を実現するに足る公共精神が培われることであろう。
そして、前節の論述からも明らかなように、新公共(体)主義の本格的展開にあたっては、単に政治学のみならず、哲学・心理学・倫理学・社会学等の多様な領域の観点を統合する事が必要である。これは、「ポリス=公的世界(全体)についての学」であったギリシア政治哲学のような、古典的構成を再生する事を意味する。ただ、今日では「政治」という用語は(政府を中心とする小領域として)余りにも狭義に用いられているので、「公共哲学」ないし――アーレントの「世界性」をも意識して――「公共世界(諸)学」と呼ぶ方が、適切であろう。
この新しい公共哲学は、諸学の知見・洞察を総合するという点と同時に、「分多論-原子論」と「全一論-全体論」の双方を新体理法的に総合するという点に於いても、総合(論)的である。つまり、これは、二重の意味に於いて「総合論的公共哲学」なのであり、本稿は、この総合論的観点に基づいた公共性の原論ないし要綱である。真に公共性を今日の世界に甦らせる為には、政治理論は「総合的・対話的(対理法的)・実践的公共哲学」たらねばならない。これは(敗戦後の「悔恨共同体」に於いて)分野を超えた知的交流の中から生まれた戦後日本政治理論の理想を、新世紀に於いて再生させ発展させていく道であり、かつ、その弱点を埋めて「個的・超個的公共(体)主義=美徳-公共(体)主義」を実現していく道なのである。
(『日韓で初めて語る公私問題――第8回公共哲学共同研究会(ソウル会議)――』将来世代国際財団発行、将来世代総合研究所編集、1999年5月9日、123-131頁、2001年2月改訂、なお、同書には、この報告に対する討論も掲載されている。)