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「国立追悼・平和祈念施設と公共の神学-ヤスクニ問題は解決するか-」 稲垣久和(東京基督教大学)

Posted: on 1:20 pm | 主張・意見・コメント(opinions), 平和問題

日本クリスチャン・アカデミー関東活動センター (2002.10.3)

国立追悼・平和祈念施設と公共の神学

-ヤスクニ問題は解決するか-

稲垣久和

1. 何のための宗教間対話か。

(1) 救いの確かさの確認か?

一口に宗教と言っても色々なタイプの宗教が存在している。個人の救いよりも共同体の祭祀が目的の宗教も存在している。宗教間対話の目的はまずはそれらの宗教的実存に生きる人々が互いの宗教を知る、という意味があろう。人はよく知らないものに不安をもつ。知らなければ不安のみならず敵意をもつ場合もあろう。したがってお互いに知り合うことは何であれ「人間の営み」として意味がある。 さらに「救い」を強調するタイプの宗教であればその救いの構造の類似点や相違点を知り、互いに学びあうということが考えられるし、現に私自身がそれを個人のレベルで体験した。

(2) 地上の平和の形成のためか?

しかし宗教には個人的な面と同時に共同体的な面があることを理解すれば、互いの平和共存という目的のための対話が考えられる。共同体といっても幾つかのレベルがあろう。このとき特に重要なのは国家というレベルでの平和共存である。それは平和を破壊するのは戦争、つまり国家がその主体となる人間の殺し合いであるからだ。国家対国家が戦争をして殺し合いをやるのだが、一国家内の市民もこれに駆り出されて、自由を奪われ人殺しをさせられることになる。宗教はこういうとき、何よりも平和のために作用して欲しい。

2.“宗教”は生の意味と死の意味を与える。

(1) 宇宙の中での人間の位置(認識)

(2) 私の生きる意味(私人の地平)

(3) 社会生活の意味(公共世界)

(4) 死の意味(すでに死んだ人々も含む)

ヤスクニ神社は特に戦没者の霊を祀るという意味で他の神社とは違う。

3.“市民社会”の形成 → 公共性とは“他者感覚”の問題

(1) 共同体とは比較的同質な価値を共有する人々からなる。

共同体は幾つかの方法で定義できるであろうが、私の定義は上記のようなものだ。日本人の感覚ではムラ社会がその典型であろう。しかし例えば現代のキリスト教会のようなものも共同体に含めていいと思う。もっとも私が念頭においているのは国教会ではなく自由教会であるが。そして、国家は共同体として考えるよりも、異質な価値をもったさまざまな共同体を法律で束ねたもの、と考えたい。ただ、今、ここで最も深く考えたいのは市民社会という概念である。これは西欧近代にその起源をもっている。国家がトップ・ダウンに法によって治められるのに対して、市民社会は生のニードに応じてボトム・アップに形成される、と考えたい。だから市民社会はどうしても多様性がその特徴となる。今日的な議論では公共性と呼ばれるものだ。

(2) 公共空間とは異質な価値を持つ人々からなる、他者との共存の場。

今日の公共性の議論は、西欧近代の市民社会と国民国家が決して理想的なものではなく、20世紀に二度も野蛮な大戦を経験したという現実を踏まえていなければならない。今、問題を「異質な他者との共存」という面から整理していきたい。なぜなら戦争の背後には人種差別、他国蔑視、という観念がまずあってこれが国家という装置に名を借りた殺し合いに発展していくからである。したがって今日の公共性の議論の背後に「異質な他者への理解」が中心的なこととして存在している。国家は公共空間の一部に過ぎず、公共空間はinterestの空間として国境を越える。今日、国家をどう定義するか。Common goods を押し進めるものとして国家を定義すればトマスの伝統から神(宗教)がそこに入ってしまうので、あえて世俗的なcommon goods(共通善)を法に従って押し進める装置とでも定義するのがよかろう(そうであるならばspecial grace(神) とは区別されたcommon grace として国家を定義する方がよかろう)。もう一つの定義は権力装置すなわち主権の概念によってであるが、このとき主権概念を脱構築する必要がある。これがボトム・アップな領域主権の概念であり日本国憲法の「国民主権」の言葉をこのように解釈すべき。

(3) 公(=お上)ではなく、公と私の間に市民が開く「公共性」が必要。

ところが日本の歴史から言えることは、民衆がボトム・アップに国家を形成してきたのではなく、権力者が上から民衆を支配する構図が圧倒的に強かったということである。この体質を改めていくには西洋以上に、公と私=個人の間に、共同体ではなく、ボランテイア・アソシエーション(結社)を媒介させていく訓練が必要であろうということだ。国家の権力というものはなくならないが、しかし市民的結社が力をつけることにより、権力を分散していく方向をとるということ。同じような儒教的体質を持った韓国ではこれがNGOなどの形でかなり強力に出来つつあることを、5月の瀋陽の日本領事館事件などを通して見た。多様なNGOをボトム・アップに形成しこれらNGOが領域主権を持つと解釈することにより、新たな公共哲学が形成される。

4.国立追悼・平和祈念施設の是非

(1) 近代国民国家形成期は西洋においても戦争を繰り返し、そのたびに市民に多大な犠牲が出た。帝国主義の時代には第三世界人民の犠牲。戦死者処遇はどこの国でも問題であった。これへのベストの解決は存在していない。ただ“過去の戦争”の性格をよく学習し、戦争はもう起こさないという決意(これは教育によるしかない)が必要。そのためにはたえずそれを「想起させる(erinnern)施設」があってもよい(国立墓苑等々)。一つの“物語”を共有するグループはそこでそれぞれのやり方で過去の歩みを憶え反省すべき。

(2) 靖国神社は日本近代史に独特の役割を果たした宗教施設であり、近代国家形成後の軍国主義の象徴であったから、これは廃止すべき。ただ一宗教法人の神社として残る可能性はある。それでも国家は一切関与すべきではない(教会(神社・仏閣)と国家の分離)。

(3) 日本人の宗教意識と過去の歴史から言えることは、靖国的メンタリテイー(祖先崇拝、死者をカミとして祀ること)はまず日本からなくなることはない。日本のキリスト者は“他者感覚”として彼らの信教の自由を認めること。但しそれを国家から切り離すこと。それには代替施設を造る以外に方法はない(「過去の戦争に限定」などの条件つきで)。

(4) 「未来の戦争」を起こさないためには国家主権を分散すべき。市民グループも主権(sovereignty)を持つことの自覚(consociational democracy=多極共存民主主義)。市民が国境を越えた平和と交流の活動を自覚的にやることにより、相対的に国家主権を弱体化していく方向で活動すること。→ 今日その徴候はある。

(5) 追悼施設を国費で管理することは、死者の国家管理につながるのか?
きれいに掃除する等の意味での施設管理維持費用は市民の税金から出すべき。

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