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Posted: admin on 7:23 pm | 書籍・雑誌情報(Books, Journals, Magazines)
「脱生産主義」の時代へ 稲垣久和(東京基督教大学教授)
今回のグローバルな経済危機は今までのそれと大きく異なっている。単に資本主義的市場経済が定期的に繰り返す不況、大量失業というパターンからもずれている。経済学者が説く近代経済学そのもののパラダイム(枠組み)が破綻しているように思う。〝派遣切り〟にはじまる失業者の増大で、日本でもワークシェアリングなる言葉も語られはじめたが、その意味がまだ十分に認識されていないようだ。
ホモ・エコノミクス(経済人)としての人間は、ミクロのレベルで自己利益の追求を最大限にしていくことにより、マクロのレベルでは社会全体の経済成長(=幸福度)が増し、各人の収入も増す。この社会モデルは生産主義モデルと呼ばれ、産業革命以降に常識化していた。大量生産と大量消費が共に際限なく繰り返される。しかし、もはや生産至上主義の価値観は捨てるべきときに来ているのではないか。
生産主義モデルの大前提は資源が無限にあることだ。十八世紀頃には人々は皆そう考えていた。しかし、現在では小学生でも地球資源が有限であることを知っている。だから生産主義には限界がある(民間機関「ローマ・クラブ」の「成長の限界」)。地球資源が有限であるだけでなく、人々は地球環境がひどく悪化していることも知っている。
地球環境は悲鳴をあげている、人類の存続も危ぶまれる。温暖化ガスを二〇五〇年までに半減しようとの声明も環境サミットのレベルで出されている。生産主義モデルの限界があちこちに出ていながら、脱生産主義モデルの提唱が遅れている。
脱生産主義とは人間の「幸福」を経済成長と結び付けない(お金だけが幸福の基準でないという)考え方であり、すぐれて道徳的・倫理的な課題だから、GDP(国内総生産)という数字のみに注視していても何も見えてこない。
筆者は三月下旬、三年ぶりにオランダを訪れた。ワークシェアリングの発祥の地として知られるこの国は、今般のグローバルな経済不況でもほとんど影響を受けていない。一九八二年のワッセナー合意と呼ばれる政労使の協調路線で本格化したワークシェアリングは、パートへの雇用保障、労働時間の自由な選択権などへと深化し、実は、脱生産主義モデルの先鞭をつけていたことが次第に明らかになっている。
一労働者あたりの労働時間の短縮と、そこから出てくる多くの男女の仕事の分かち合いは、生産至上主義を貪欲に求める時代から、一人ひとりの「自由になる時間」を増やす生き方へとライフスタイルを変えているのである。また、大量失業者が出ないで多くの人が雇用についているということは、生産部門のみならず社会に必要なさまざまな仕事が、見えないところでこなされているということだ。
たとえば介護や子育ての仕事もそうだ。高齢者介護や育児面の福祉政策上の支援には、手厚いものがある。地球環境に優しい脱生産主義は、人間にも優しい価値観を持った考え方なのである。
日本の政治家の発想は相も変わらぬ「生産主義」モデルを出ることができない。国民一人当たり一万円ばかり給付して「直ちに消費せよ、消費せよ」というだけでは無策にすぎるではないか。
人々はこの何十年も消費欲をあおられて生活してきた。この消費の「欲望の解放」がまさに近代的な倫理観となっていた。いま、これを「欲望のコントロール」へと転換する必要があるのだ。個人モラルとしてだけでなく、文明論的な社会構造の転換のために不可欠なモラルなのである。
「環境」「福祉」や「家族」「女性」「地域」「教育」など現代的課題に対して、有機的に結びつける斬新な構想力をもって、一部の政治家に任せるのではなく、市民がもっと対話できるタイプの民主主義を作っていく時代になっているのではないか、こう思うのである。