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Posted: admin on 10:29 pm | 書籍・雑誌情報(Books, Journals, Magazines), 論文・書評・所感など
東京工業大学教授 今田高俊
市場原理主義にもとづいたグローバル化は公共性を閉ざす力学を内包し、世界は私心化の呪縛に陥る危険性がある。なすべきことは、新自由主義が引き起こして いる弱肉強食型のグローバル化に抗して、異質な文明間の対話と共生を可能にする公共性の樹立である。そのためには、各国の特異な文化や地域性を無視した 「世界標準」を押し付けるのではなく、これらを尊重したグローバル化を模索しなければならない。以上が、私の理解した限りでの「グローカル公共哲学京都会 議」の趣旨である。前号で、山脇直司教授によりグローカル公共哲学の構築に際して、漢字文化圏における「和」の概念の脱構築を中心に、第一回会議の模様が 紹介された。今回はグローカル公共哲学のその他の問題に焦点を当てて報告してみよう。
グローバリズムと公共哲学
新 自由主義の主張は、1980年代のレーガン、サッチャー、中曽根らが依拠した新保守主義の延長線上にあり、市場競争原理によって規制緩和や民営化および福 祉への公共支出の削減を徹底しようとする。その特徴は、新保守主義が抱えていたイデオロギー的側面、すなわち社会の規律を回復し、古き良き家族やコミュニ ティの復活をはかるべきだとする旧秩序へのノスタルジーを払拭したことにある。そして、公益や共同体という概念に代えて「自己責任」を強調する。
しかし、自己責任という美名の下に、様 々なリスクを無批判的に個人へ転化することは許されない。粗野な自己責任論は、社会的弱者に医療・教育・社会保障を自分でどうにかせよと圧力をかけること であり、そうできない場合は自業自得とみなすことである。これでは民主主義の退行にほかならない。
「政府の失敗」を市場によって単純に肩代わりすることは、再び「市場の失敗」による困難を招くことになる。さらに今回は、少数の勝ち組と多くの負け組をグローバルな水準で生みだす可能性が高い。弱 肉強食型の競争原理を掲げる市場主義は、公共性の問題を競争の公正さと敗者のためのセーフティネットに矮小化する(セーフティネットの提唱は新自由主義か らのものに限定されないことをことわっておく)。公共財の配分や公益サービスの提供など、市場メカニズムによって処理できない外部(不)経済の問題を棚上 げすることは、「市場の失敗」に対して見て見ぬ振りをすることに等しい。それは公共性を閉ざす力学を容認することだ。公共性の視点を欠いた社会運営は、人 々から連帯感と共生の観念を奪い取り、殺伐とした人間関係を強いることを忘れてならない。
会議では、このあたりの事情について、 中国/清華大学の廬風教授が「ユニバーサル倫理」の必要性を述べたことが印象的であった。つまり、近代社会の共通ドクトリンである《経済主義》が新しい宗 教として登場することで、これまで倫理や道徳を真剣に考えなくても済む社会作りが進められてきたが、いま我々に課されている責任は、「対話のコミュニ ティ」によるユニバーサル倫理の構築だとしたことである。「対話のコミュニティ」はハンナ・アレントのいうポリス的公共性に通じ、公共性を開く原点となる ものである。また、九州大学の藪野教授からは、グローバルな課題はローカルに対処することが大前提であり、ローカルが主導権を握る必要性が指摘された。 「市民イニシャティヴ」によってグローバルな課題に取り組み、これをネットワーク化することがグローカル公共哲学の基礎である。さらに、ニュージーランド /オークランド大学のアンドリュー・シャープ教授は、原住民であるマオリ族の問題を例にあげて、道徳性が対面的な相互作用から始まり、国家を経て、グロー バル社会へ至るためには、「抽象化による脱埋め込み(disembedding)」が不可欠であるとの報告があっ た。これをどのようにおこなうかは開かれた問題だが、重要なポイントであろう。「対話のコミュニティ」「市民イニシャティヴ」「抽象化による脱埋め込み」 は、グローカル公共哲学の今後の展開にとって避けて通れない課題である。
中間集団の再生
公共性を考える上で重要な論点として、 公と私を媒介する中間集団(英語からの直訳では媒介集団だが、日本の社会学では何故かこう訳されている)の位置づけの問題がある。これは伝統的には家族、 町内会、地域コミュニティ、結社などをさすが、最近は、ボランティア組織、NPO(非営利組織)、NGO(非政府組織)など新しい中間集団が登場してい る。中間集団は、個人と社会の中間にあって、両者を媒介すると同時に、公と私を媒介する役割をも担うものである。
オーストラリア/ディーキン大学のス トゥルアン・ジェイコブズ上級講師によれば、自発的結社、地域コミュニティそして家族など、中間集団の社会的意義が発見されたのは一九世紀であり、中間集 団による「自生的秩序の実現とその維持に貢献する責任を引き受けること」が公共性を開くポイントである。豊かな社会の実現により、大衆民主主義と福祉社会 が浸透することで、公共精神の崩壊が進んだが、公共性を開くには中間集団を媒介とした自生的秩序の形成が欠かせない。また、韓国/ソウル大学の張慶助教 授は、家族は社会資本とみなすべきであり、家族がおこなう教育投資は公的な営みであることを強調した。韓国では、新自由主義に影響された政府の教育政策の 失敗により、この投資行為が報われなくなっているという。家族の教育投資を公的営みとみなす説得力のある理由づけを知りたいところである。
かつて一九世紀の半ば近く、アレクシ ス・ド・トクヴィルはアメリカ社会を見聞した際、伝統的な中間集団が解体して個人の孤立が進む中、多様な自発的結社が形成されていることに新鮮な驚きを感 じた。そして、この中間集団が担う公私媒介機能に、新しい民主主義の可能性を期待したのであった。その後、中間集団は衰退の一途を続けてきたが、市場や政 府が抱えている利益追求原理や官僚制の逆機能に陥ることなく公共性を開くには、中間集団の再生に期待するほかない。このとき注目すべきは、ボランティア団 体、NPO、NGOなどの新中間集団である。今回の会議では、このような新しい展開についての本格的な報告はなかったが、政府や市場から自律した、市民に よる人・物・情報の支援組織作りが不可欠であろう。また、電子メディアの発達により、これら新中間集団の活動はグローバル化と連動しているから、ローカル な公共性をグローバル化する上でも重要である。
世代責任とジェネラティヴィティ
今回の会議での特筆すべき点の一つは、 「公共空間」だけでなく世代という時間軸で見た公共性が議論されたことである。「世代」は従来、中間集団とみなされてこなかったが、カール・マンハイムの いう「世代統一」に達した世代は、特徴的な価値志向や文化様式を持っており、この意味では中間集団の性質を備えているとみなすことが可能である。
社 会は世代によって構成され、新たな文化や価値が生成され次世代に引き継がれる。にもかかわらず、これまで社会科学では世代について真剣な議論がなされてこ なかった。世代論といえば、価値観のギャップあるいはマーケティングにおける生活様式戦略といった議論に矮小化され、社会編成の空白地帯になっている。家 族崩壊、地域コミュニティの弱体化、高齢社会における医療・介護の問題が指摘される中、世代に焦点を当てた公共性の議論が不可欠であろう。この点につい て、私は昨年十月に出版した『意味の文明学序説-その先の近代』(東京大学出版会)で、すぐ後に述べるケアとジェネラティヴィティの概念を軸に、世代責任 としての公共性を論じておいたが、現状は、世代論の再考を我々にせまっているように思える。
東京大学の山脇直司教授は、これからの公共哲学にとってグローカルな視点と共に、次世代に対して応答的で責任感を持った「多元的自己」の重要性を指摘し た。この点については、前号掲載の山脇教授自身の記事を参照されたい。私見になるが、例えば、かつて日本がおこなったアジア諸国への侵略にかんする「世代 間の罪の継承」問題について、戦争を知らない世代にこれをどのような形でおこなうか難しい問題である。しかし、少なくとも次世代に、過去の対アジア諸国関 係について、侵略の責任の所在が日本国家にあること、したがって各人が国家に責任を取るよう何らかの働きかけをする義務があることだけは、きちんと伝える 必要があろう。世代責任としての公共性を真剣に考えねばならない所以である。
将来世代総合研究所の金泰昌所長は、前号で報告のあった漢字圏の「和」の発想に加えて、エリク・エリクソンの「世代生成継承性」(ジェネラティヴィティ)[i] が これからの公共哲学の重要なテーマとなることを指摘した。これは子供を産み育てることを初めとして、文化を創造して次世代に伝達すること、人に教えたり世 話をしたりすること等、ケアと支え合いを基礎とした世代間の相互実現をもたらす営みである。一言でいえば、次の世代を確立させ、導いていくことへの関心で ある。昨今の、幼児虐待や家庭内暴力などの事件の多発は、ジェネラティヴィティの危機を反映したものであり、現代の日本が陥っている親世代の症状であろ う。世代責任としての公共性が問われなければならない所以である。
また、健康上の理由でペーパーのみの参加となった、南オーストラリア州立フリンダース大学のノーマン・ウィントロップ客員研究員も世代間の責任は公共哲学 の重要な課題であるとみなす。氏によれば、近代資本主義の初期には、家族や地域コミュニティの将来に対する配慮(ケア)が適切になされていたが、現在これ が萎えているという。現世代の将来世代に対する義務は、環境保護だけでなく、将来世代が分断した社会を引き継ぐのではなく、安全で安定した社会が受け継げ るよう努力することにある。
社会運動と政治の責任
公共哲学は政治的実践を伴わなければな らない、と指摘したのはオーストラリア国立大学のデヴィッド・ウエスト上級講師である。氏は、新しい社会運動を例にあげつつ、個人がポリティカル・エー ジェントとなって資本主義的なグローバル化に対抗する必要性を説いた。現在のグローバル化は公共哲学を阻害するものであり、社会運動によって負のグローバ ル化に対抗しなければならない、という。印象深かったのは、脱物質社会化した現代において、社会運動は流動的で非ハイアラーキー的な自律的組織になる必要 があること、市民社会よりもミクロなレベルの政治性すなわち「個人的なことは政治的なこと」を基礎とすべきこと、の指摘である。
新自由主義が推進するグローバル化で、アメリカや日本では、貧富の差が広がっている。西欧諸国では失業問題が深刻化し、また北欧やカナダでは福祉国家が揺らいでいる。アジアや南米に通貨危機が訪れて、国家存亡の危機をもたらした。もうひとつのグローバル化を真剣に考えてみる必要があるだろう。
公共性とは、一般的に、民主的な政治秩 序の形成にかかわる問題である。したがって、公私の乖離が進むことは民主政治の根幹を揺るがす。今日、拘束なき個人主義が蔓延し、「私」が「公」と離れた ところで謳歌する状況にあるが、公私の乖離は政治腐敗の温床である。というのも、こうした状況から帰結するのは、政治に対する無関心とチェック機能の低下 だからである。実際、多くの国で、政治や行政に対する信頼喪失が叫ばれている。政治や行政は本来、国民の信頼を得て、公共的な問題にたずさわるべきである が、現実はしばしば公共性の場に「私事」が侵入して、これを蝕んでいる状態である。
オーストラリア防衛大学のデヴィッド・ ロベル助教授は、政治家の責任、特に政治エリートの責任という視点から公共哲学を考えることの重要性を指摘した。現在、自由民主主義は病んでいる。政治家 に対する信頼性が喪失し、国民の間には懐疑主義とシニシズムが蔓延している状態である。その大きな原因は国家による意思決定過程の秘匿にある。「言論が万 人によって見られ、聞かれ、可能な限り公示されうる」(アレント)という公共性の原点が政治に欠けているとすれば、こうした権力作用を可視化するシンボ リックな挑戦が民主主義の再生に不可欠であるだろう。
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二回にわたって紹介した「第一回グロー カル公共哲学京都会議」は、一九九八年より約30回に及ぶ「公共哲学共同研究会」の成果を基礎にして企画されたものである。公共哲学共同研究会の理念は、 「私」を活かして「公」を開く「活私開公」(金泰昌氏による命名)にあった。これにならっていえば、グローカル公共哲学の理念は、「ローカル」を活かして 「グローバル」を開くことにある。そして、日本的「和」の概念の脱構築とボランティア団体・NPOや世代など中間集団の再生を通じた、「文明間の対話」を めざしている。
この会議直後に発生した同時多発テロ事件を契機として、千葉大学の小林正弥氏(政治哲学)を中心に、公共哲学共同研究会メンバー有志によって、公共哲学ネットワークが形成された。[ii] こうした場を活用して、「文明の共生」のための処方箋が生まれることを期待して、報告を終えることにしよう。
[i] ジェネラティヴィティについては、Erikson, Erik H., 1950, 1963 2nd ed., Childhood and Society, New York: W. W. Norton.(仁科弥生訳, 1977,『幼児期と社会』第2版, Ⅰ・Ⅱ, みすず書房)訳343-45頁および、Erikson, Erik H., 1964, Insight and Responsibility: Lectures on the Ethical Implications of Psychoanalytic Insight, New York: W. W. Norton(鑪幹八郎訳, 1971,『洞察と責任-精神分析の臨床と倫理』誠信書房)訳128-30頁 を参照。エリクソンはジェネラティヴィティの概念について青年期のアイデンティティほどは詳しく展開していないが、成人期の人間の生きる力と社会の公共性 を考える上で極めて重要な概念である。翻訳では、ジェネラティヴィティは「生殖性」や「生産性」と訳されているので注意。
[ii] なお、このネットワークは、公共哲学のプロジェクトを発展させるために、小林氏の尽力により設立された「公共哲学センター」(千葉大学)によって運営されている。ネットワークへの加入などの詳細については、http://homepage2.nifty.com/public-philosophy/network.htm を参照されたい。